Parfait Amour
ゆっくりと仰け反った。
「ぅ、……っ」
背中の後ろにシーツがかすかにへばりつき、それから首の後ろを汗が伝い落ちていくのに重く跡部は瞬きを繰りかえして渇いた唇を舐めた。膝がびくびく跳ねる。息を小さく逃がしながらシーツに額をこすりつける。
ふ、と股座に湿って熱っぽい息が当たるのがいけない。グリップをつよくにぎるせいで僅かにかたくなった手のひらが、震える臍の下あたり潤んだ肌をたしかめるように押し当てられる。しんどい?と耳だけでなく体にも声が響くのに、跡部は低い声で返した。
「……なげえ」
「うん、もうちょい待ってや」
太股に頬がすりつけられててかるく歯をあてられる。見た目よりずっと肉厚の舌がおしあてられて絡みついた。ぶるっと震えるとすこし漏れるのがわかって、目を閉じて堪える。入れられたままの指がおしあげるように動かされ、かすかに背中が浮く。
「ぁ」
口をあけてガムを噛むような行儀のわるい濡れた音が小さく幾度も響いて、そのたび息をのんだり歯を食いしばったりと忙しない。
「ねちねちしつこいぞ、てめえ」
「やから、もうちょい」
かれこれ二十分ちかくかき回してもうちょいもなにもないだろう。
「もう、入んだろ」
足を持ち上げて、忍足の背中を踵で叩いた。あいた、と黒髪が下腹に沈むのに手を伸ばして、かき回す。
「や、うん」
「長いほうがきつい、つってんだろ」
「……うん、ごめんな」
謝ることはないが、と手を放す。指の隙間をすべりおちる髪がなごりおしくて、もう一度手をのばして耳の後ろを撫でた。ごそごそとゴムをつけているのを待っている間はひまなものだ。形のいい旋毛をみあげながらくすぐっていると、忍足が肩を竦めた。耳をいじると、嫌がってはたつかせる猫のような仕草だった。猫は好きだ。犬も好きだが。
幾度かなじませるように押し当てられて、呼吸に合わせてゆっくりと沈められる。
血管に針をさされるのを数倍にしたような異物感と圧迫感、浅く息を吸っては逃がして天井に視線を泳がせる。ちゃんと入れさせんの何回目だっけか、と浮かんだ思考はすぐに散ってしまった。両手はきっと越えた。
呼吸しかするつもりのなかった空気に声が乗り、鼓膜をしたたかに叩く。獣の鳴き声めいた声が自分のものだとしって、跡部は小さく瞬く。ぎち、と奥歯を噛む音が聞こえた。
「っ?」
「ごめ、」
「〜〜〜〜ッ」
いきなり沈められ、かわいた息が咳きこむように押し出された。肩口に忍足の額がこすりつけられる。息をすることさえ辛いのだと言いたげに押さえ込まれた、不自然に深くゆるい呼吸とお互いの胸と胸の間、しめった熱がこもったのに、ひどく昂奮しているのだと知れた。お互い、がちがちに強ばって進むこともひくこともできない。呼吸でさえ厳しい。
「は……てめ、ぇ」
しゃべらんで、と息だけが届いて首筋が震えた。満足そうなため息をはいて両手をシーツにおきなおした、忍足がすこし背筋をそらした。深々と味わって体の真ん中が生ぬるいゼリーみたいにとけだしそうだ。
ぬる、と下腹を指先がたしかめるように辿って、ゆっくり湿った絨毛をかきわける。もろい宝石をさぐりあてるような触れ方だった。爪先が丸まった。汗ではないぬるつきに忍足はすこし笑ったようだった。
「なあ、……ちょっと出とる」
「……」
「アイタ!」
やたらと嬉しそうなのに腹が立って、苛立ちまぎれに髪をひっぱった。彼は眼を伏せ日向でまどろむ犬みたいにくしゃりと笑った。
跡部様の御気色は本日はあまり芳しくないご様子、との話は氷帝学園中等部、週に一度講堂で行われる朝の全校集会を密やかに席巻した。その影であるものは青ざめあるものは涙しあるものはごく隠れてではあるが微笑んだのであった。
彼の方の御気色が優れないというだけで何故、学園がゆれるかといえばもちろん理由はある。
曰く、一に彼の方が初等部五年にして副会長を勤められていた折、金木犀かぐわしい秋の頃、創立以来つづいてきた伝統ある部とのことで黙認されてきた書道部の書道室使用が禁止され、部から同好会にと変更を余儀なくされた。
理由は生徒会則五条「同好会は長および副長、また顧問、副顧問を要すれば正式に同好会として発足できる。また、同好会が部活動となるためには部長、副部長、会計をのぞく部員二名以上、及び顧問、副顧問が所属しそれぞれの同意書を提出すること。(副顧問は兼任を可とする)(生徒会員の同意書は入部届を兼ねるものとする)」「いかなる部活動も生徒会に正式な届出及び認可なくして規定の部室棟をのぞいた学校施設を使用してはならない」に反するため。
当時の書道部は出家予定になる寺院の子息一名、部活動所属が必須となっているために入部しほぼ出席しないものが一名、および療養のため休学中の一名のみ。部活動から同好会として活動を縮小するのが適当とし、平時における活動を書道部から書道準備室へと移動、書道部使用における備品管理という名目で支給されていた部費を削減した。
なお書道室は部員が増えたため他の教室併用を希望していたブラスバンド部が使用することとなった。理由として第一音楽室の隣であったこと、壁が同じ防音素材でできていたことなどがあげられる。
この書道部の処分を皮切りに断行された部活整理の嵐は、初等部における自由な部活動を損ねるものとして反発もあがったが、生徒総会における処分の発表により同好会発足における原則がひろく生徒会員らに認識されたことから、新規同好会をたちあげが大幅に増えた。
そのため生徒等の自主性を促すことに広く役立ち、文化祭あるいは体育祭といった行事参加においてイベント企画・運営等がほかならぬ自らで行われるものであるという高い意識を持つに至ったことは、課外で得る経験としては得がたく評価に値すると解釈するものもいる。
翌年、生徒会長に就任してからは五年間持ち越しの課題となっていた制服デザインの刷新をついに断行し、かつ初等部最高学年の生徒は最後の公式大会が終わった後、中等部部活への仮入部を認めるなど大きなもののみを数えれば二つ、中等部生徒会に所属してからは指定通学鞄の軽量化を主とした改良、スポーツバッグの導入、各行事における生徒会企画、ほかこまごまとした学校生活の改正をくわえれば枚挙の暇もない。
もはや学園改革といっても過言ではない、数々の功績はもちろん、生徒総会における賛成多数によって承認を得なければならなかった。つまり、氷帝学園現生徒会長は稀に見る支持率、教師陣の承認を得るだけの厚い信頼を頂いておられる。
確固たるリーダーの下、一致団結した学園において彼が右手を伸ばせば十戒のごとく道がひらけ、左手をあげれば歓声があがる。バタフライ・エフェクトとくらべるのもおこがましい。彼は氷帝学園の象徴といってもはや過言ではない。跡部景吾をして氷帝たらしめるか、氷帝をして跡部景吾たらしめるかは問うまでもない、周知の事実なのである。
まず朝の朝礼におかれては、壇上にあがり、秋季の大きな行事である文化祭への企画を説明される声は常と同じく朗々とよどみない声であられたが、席にお戻りになられてから椅子に腰掛けた横顔は冬の月のごとく冴え冴えと張りつめておられた、と一年がささやきかわす。
独語の授業においてはゲーテを朗読される折、白皙を愁わしげに曇らせ足早に往き過ぐ夏を知らせる雨のごとき密やかな声音で読み上げられ、とくに「失われた初恋」には点に厳しいことで知られる教師も涙を浮べお褒めの言葉を下されたとのこと。
放課後の部活動においては、解散を命じられたあと、常に傍近くに黙々と控えている一年の者が気遣わしげに声をかけたところにほのかに笑みをお浮かべになられ心配は無用と仰せになったが、それも束の間、露重くしてうなだれる秋の花のようにすぐさま麗しの美貌は翳ってしまわれたともいう。
中庭で霜ごとに茜へとかわるメタセコイアの並木そばのベンチでは物思いに沈まれていたとも、たびたび訪れになる図書室でも悩ましげな吐息をつかれていた等など、もろもろをあわせ、彼の方は何がしか大きな憂いをお抱えになられているのであろう、という結論に至るまでは数日とかからなかった。
肌寒くなりだす時期は体をあたためないと危ないため、ストレッチングのあとはすぐダッシュをするのではなくおよそ一キロになる中等部外周のランニングがメニューのトップにもってこられる。
部長からはじまって全員まわす声だしをしながら、ゆったりと走る。中等部高等部共用の中庭はインラインスケートをつけた高校のスキー部がコーンを避けながら練習をしていたり、帰宅するものの姿がちらほらと見えるだけで、校庭のほうが部活動があるため人口は多く見える。
だんだん朝や昼下りのアスファルトの照り返しが淡い黄色になって、肌寒くなってきている。イチョウもサクラもいつのまにか秋の粧いになってしまった。
コートまで戻ると学年ごとにダッシュとあまり場所をとらない筋トレのグループに分かれて、十分体をあたためてからやっとラケットに触って、サーブ練習だ。
ラインにならんで二本ずつ、全面を使って制限時間一杯かわるがわるともかく打ちまくる。サーブの精度が低かったら話にならない。人数が多いため打てないものはボールを端に寄せたりしつつ、待ちのあいだ雑談をするものもいる。
とん、とん、とバウンドさせてトスをして確かめる。何度もおこなった反復練習で考えなくても打てるかわりに調子が崩れると戻しにくいのが難だ。自分の一番いいところにねじこめるサーブを生かしきれなかったら、流れなんてもちこむことはできない。サーブが安定していることは前提だ。
ドン、ひときわ鋭く重い音に目をあげると跡部が二球目をバウンドさせているところだった。主に球がサーバー側にいかないようにしている一年が、すみません、と声をあげて走ってくるのに忍足は首をめぐらせて、トスに入ろうとしている跡部に声をかけた。
「跡部、足あぶない」
とん、とボールが垂直に跳ね上がった。素振りをした格好になった跡部が振り向くのに指をさしてしめす。
「足元、こぼれ球」
「ああ、悪い」
ネット脇をころがってきてしまったか、誰かおとしたのだろう。足元近くにあるボールを拾い上げて投げてくるのをラケットの上をすべらせて、足元におとす。跳ね上がったのをつかんで転がしていった。
とん、とん、とバウンドする背中を見る。
ぐうっと弓のように引き絞られた体がラケットに集中していってボールを勢いよく打ち出す、体の感覚としてもきっちり知っているフォームをみていると、癖らしい癖がなくてきれいだなと思う。ラインぎりぎりにつきささるのに、相変わらずやなサーブだと顔をしかめた。やられるほうはたまったものじゃない。
「調子、ええんや」
「サーブは基本だろ。全部いれるのが前提だ。――――ラスト一本!」
口にさげた笛を短く鳴らす。号令に大きな声が返った。
「忍足」
「ん」
振り向くと跡部が真顔をしている。普段はいつも悪どい笑みをうかべて怖かったりするが、笑いがなくても怒っているようで怖い。美人は笑顔が似合わない、というのとどこか繋がってたりするのだろうか。
「いや、なんでもねえ。――――三年、二年メニュー表にしたがえ!一年は集合!」
ほら行け、と追い出されて忍足は走りだす。一年生たちが放牧される羊のようにわらわらと走りよっていくのを横目に通り過ぎて、好かれてるなあと思った。
じゃあな、と宍戸が出て行くとレギュラー用部室はしんと静まり返り、時計の音が耳についた。
日誌を打ち込み終えたらしく、跡部が立ち上がるのに忍足も立ち上がって、ロッカーからブレザーを出してやった。
「一緒に帰るのも久しぶりやな」
「そうか?」
「ここんとこずっと車やったやんか」
「仕事ふってやらないわけにはいかねえんだよ。オレがいらねえっていったら解雇だからな」
「愚問でした」
そのまま電車を乗り換えて地元駅につく。駅前のスーパーで朝頼まれていた買い物をしてから、街灯が点る黄昏のとおりを歩いて家に向かった。
「おまえのとこって駅から歩くよな」
「駅前のあたりの駐輪場、このあたりの地主が金とりよるんよ。やらしいよなァ。駅が高架下あたりにロハで設置されへん限り、自転車つかうんはな。二回くらい撤去されてもうたし」
「地主、ね」
「工場やっとったり議員やっとったり農家やっとったり医者おったり、もう一族って感じやな。昔の庄屋とか網元みたいなもんやろ」
玄関のドアに手をかけると、ガチンと鍵がかかってるのを示す手ごたえだ。むきだしの鍵を差し込んであけると、電気をつけてから入るよう顎をしゃくった。
「誰もおらんから、台所から勝手になんか飲み物だしてもええよ」
育ちがいいからしないだろうとは思うが、一応いってからトイレに向かった。なんとなく洗面所にタオルの控えがおいてあるのを見てしまう。
全国クラスの強豪だけあって、当然けっこうな練習量だしメニューもちゃんと組まれている。それでも沸き起こるのだから、やっぱりスポーツで発散なんて無理なのだと思いながらベルトを弛めた。
トイレから戻ると跡部がリビングのソファに背中をあずけていた。勝手に冷蔵庫もあけていいといったのに、予想通りなにも飲み物をだした形跡はなかったので、薬缶に水をいれて火にかけた。
「コーヒーとほうじ茶と紅茶どれ?」
「コーヒー」
「了解。なにしとんの」
「いや」
脱いだブレザーをソファにかけて覗き込む。跡部背もたれには頭をあずけて天井をみている。なにか面白いものでもあるとおもったが、ふつうの壁紙がはられた天井がみえるだけだ。
「ちょっとな」
「跡部さまの愁い?」
「んだそりゃ」
「なんやそういう噂が流れてんのやって。俺はあんまそう詳しいほうと違うからおそいんやろうけど、ここ最近、跡部様はなんとも愁いに沈まれて物憂げなご様子、もしや恋わずらいとかなんとか。ほんで実のところは?」
「……あたらずとも遠からずか?」
ごっとり、と鈍い音をたてて取り出しかけのマグカップが手から落ちた。
「…………なんかオレした?」
「あー、なんだ。おい」
待て、と跡部の手のひらがびしりと目の前に出されるのに、忍足はほそい眉をわずかに顰める。しかし跡部は実に気高く威厳をもって言い渡した。
「ハウス」
「……怒るで」
「軽い冗談じゃねえか。器の小せえこといってんなよ」
「嘘こけ。褒めようとしたって乗らんで」
「ッチ」
盛大な舌打ち。
「あんまこういう空気でいうのも情緒ってもんがねえな」
「はぐらかすなや」
「気ぃ使ってやってんだよ」
「…………そんなショックなことなん?」
「付き合ってヤってるカップルの男が、女を部屋につれこんだら考えることなんてだいたい一緒だよな」
「……がっついてたらな」
「がっついてたらな?」
シンメトリーに形のいい唇をもちあげるのに、見透かされてるわけだと忍足は思うが、この場合跡部にも適用されるのだから両成敗、と引き分けの判定をくだす。
「だが忍足よ」
「改まっていわれると落ち着かんわな。なんでしょか」
「オレも男だ」
きっぱりした声に背筋が伸びた。
「……おお」
「正直、あんま、きっちりやられるときつい」
「……きっちり、て?」
「性行為における挿入」
ピィイイイイイイイイイイイ、と薬缶がけたたましく鳴り響いて沸騰を高らかに知らせた。
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