Parfait Amour
瞬間凍結していた忍足はぎくしゃくと台所にもどった。
セットしておいたドリップにお湯を空気をちゃんと含ませて、ほそく注いでいくと香ばしい匂いがあたりに漂う。
「ということでオレは今後の性行為における改善を要求する」
一口、マグカップに口をつけた跡部は忍足の眼をのぞきこんで実にきっぱりと言い切った。一方の忍足は膝の上に両手をついて俯いている。
「……なんや今しおしおのパーになったわ」
「だから気ぃ使ってやったんだろうが」
「うん。涙でめがねが曇って前がよう見えんわ。ていうのは置いといて……あー、なんやこの空気。うー……、その、厭なん?」
「いいや」
「で、では具体的に……ってなんやこれ。ほんまになんやのこれ。こういうのって無言のうちにとか、察するとか、気遣いとか、な、そういう日本人のよき、なんちゅうの」
「コーヒーでも飲んでまあ落ち着けよ」
ごくごくと飲んで、深く呼吸をすると落ち着いてくる。カップをテーブルに置いて、跡部をみる。
「……なんで」
「……」
「あ」
「云うな」
準備とか、と呟いた忍足に跡部の手からマグカップがごっとりと落ちた。ぶるぶると白くなるほど手をにぎりしめているのに気がつかないまま、忍足はうかつにも口をひらく。
「やなら手伝ったる、し」
「てめえこそ日本人のよき気遣い置き忘れてんじゃねえか。察しろバカ」
しかもなんだそのディープな発言、と恐ろしく低められた声に忍足はひるまない。だってラブライフがかかっているのだ。愛の生活だ。
「バカは百歩譲ってええとして、ほやかって、ほやかっていややもん!だって最近ようやく」
がつりと顔をつかまれて万力で締め上げられ、忍足は悲鳴をあげた。眼鏡が手のひらでおしあげられて鼻骨に食い込んで本気で痛い。
「いますぐその口、縫ってやろうか」
「……からだはちがう、て」
「……」
「っ、ッ、タ!しつげん!失言!不適切でした!」
ふん、と鼻を鳴らす音がしてようやくアイアンクローから逃れることができた。本気で涙が出てしまった。とりあえず指紋と顔面にくっついたせいですっかり曇った眼鏡をはずしてため息をつくと、足を組みその膝の上で頬杖をついた跡部が顔を横向けていた。
「……やること自体が、厭だとは云ってねえ」
「ん」
「……だが、ちょっと、あれは待て。厭な訳じゃない」
やたらと弱くなった声に首をかしげると跡部は目をつぶってなにかをこらえているような顔をしている。わずかに、血の色を透かせているのに、鼓動が一足飛びにはねあがった。それから、じわじわと湧いた喜びに顔がちょっととけた。
「うん、わかった」
あっさり頷いた忍足に、瞼をあげた跡部が視線だけを投げてくる。
「わかった。ほんなら、跡部のペースでええよ。我慢せんで云うてくれてよかったわ」
ごめんは云わなかった。謝るのはなにかいけない気がしたのだ。いままで黙って付き合ってくれて、いたのだろうけれど、跡部の意志がないなら絶対にしなかったと断言はできる。謝ることでも謝られることでもない気がした。
「でも、たまにお願いするかもしれへん」
「……ああ」
「やなら厭って突っぱねるやろ」
「そりゃな」
「ほならこの話はしまい、でええ?」
お伺いを立てるようにわらうと、ああ、と跡部はうなずいて、片方の眉を顰めて笑った。どこか皮肉そうな表情の作り方なのに、晴れやかな表情だった。背中からするとき、俯いて声をこぼすときにうごく耳の後ろのかすか窪みを思い出す。とびきりのところだ。あそこに今すぐ口付けたいなあ、と忍足は唇を舐め、ごまかすようにコーヒーに口をつけた。
ぽかんと瞬きをする忍足の眼にカーテンから洩れる光をうすくぼかした天井が見えた。静かに部屋をつつむ細雨の囁くような音の後ろで新聞屋のバイクの音がきこえる。絶え間なく響いているのは浴室からだ。
目が醒めたのは傍らの体温が消えたからだった。
父は宿直明けのあとそのまま日勤に入り、母は伯母が怪我をしたとのことでこの週末を利用して泊まりにいっている。姉はゼミ合宿で一週間はいない。だからこそ家に跡部をつれこめたわけで、起きたらしい彼がまだ明けきらぬうちに水をつかっても気兼ねする必要はなかった。
欠伸をしながらすこし冷えたフローリングを踏み、肌寒さに腕をさすりながら忍足は廊下をすすんでいく。曇り窓にはいくつか水滴が見えたが、結露か雨粒かはよくわからなかった。
「跡部?」
どないしたん、といいながら浴室のドアを開け、忍足は口をつぐんだ。浴室のセラミックタイルに膝をついて背中をまるめている。
「跡部!」
とっさに立ちくらみでも起こしたかと思って慌てたが、口をゆすいでいただけらしい。なんだよ、と寝起きの不機嫌に眇められた眼のするどさに忍足は安堵したのだった。
「驚かせんといてや。吐いとったんかと思うやん」
「つわりじゃねえから安心しろ」
「…………」
「赤くなってんなよ」
真顔でさらりといった言葉に思わず口をつぐんだら顔にでていたらしい。
「……俺、そない顔でとるかァ?」
「あーん?家だからじゃねえのか。けっこう、読みやすいぜ。それで忍足、てめえはいつまでそこに突っ立ってやがる」
「……髪、洗ったるよ」
なんか追い出されてしまうのも厭で、なにより起きたときに隣に跡部がいなかっただけで心臓を冷やした淋しさが腹の底で冷たい石のように沈んでいて、適当なことをいう。それから手をのばして、耳の横の髪をすこし撫でてから、慌てて手を放して指を握りこんだ。寝るようになると髪にふれるくらいがなんでもないようなことに思えてしまうけれど、傍からみたら奇異にうつることだろう。人前では気をつけないといけない。
ごまかすように顎をしゃくり、腰掛をひきよせた。
「ほら、浴槽はいっとき。姉ちゃんのでよければヘアパックもしたるから」
「おまえ、せこいな」
「……ヘアパック使う男子中学生なんざそうそうおらんて」
普通「そんなの使うか!」という回答だが跡部はもちろん斜め上の回答を返すので、忍足もまともに受けず斜め上で返した。浴槽そばの腰掛にすわる。浴槽に跡部が浸かってゆっくりもたれかかるのに、シャワーをあてようとして手が止まった。
(……かたまっとる)
そういえば一回まともにかけてしまった、と思い出すと、床板を踏み鳴らして奇声をあげたい気分がこみあげて困った。手の甲まで赤くなっている。
「……なん」
じいっと見あげられてなにも責められていないのに後ろめたさに慌てた忍足はシャンプーボトルを取りながら、ちょっと顎をひく。水のついた顔を片手でぬぐって、濡れた睫を重たく瞬かせた跡部は、おまえ、と唇をひらいた。
「すけべだよな。エロいっていうより」
「なんなん、それ」
感心したとばかりにしみじみ呟かれるた声にうまい反撃の糸口がみつからず忍足は無言でシャンプーを泡立てはじめた。
けぶる朝もやのむこう、信号機がゆったりと黄色くまたたいているままの道路は車の影も人の影もなく、時折電車の音が響くだけだ。夜は終いと花をつけた百日紅の影や草裏の淡墨にほのかにとどまるばかりで、人々が外を歩き出すころにはきえているだろう。
帰るという跡部を駅まで送るため歩いている途中、ふと思いついて車道の真ん中をあるいていると、止まっているエスカレーターを歩くような妙な気分になって面白い。動いているはずなのに動きがとてもおそくなるような、歩きたがる頭に足が違うと訴えてくる。
ちぐはぐな頭と体にサンダルが片方すっぽぬけて五歩ぐらい裸足であるく羽目になった。
歩道の際やかわいた排水溝から顔をのぞかせる狗尾草は露をふくんで、アスファルトは歩くとざらついて石がささるような、けれどマッサージみたいで気持ちがいいようなでわからない。冷たい、ともらすと、ガキか、と跡部に鼻で笑われてしまった。
だが跡部もすぐに濡れた髪が冷えたせいか、小さくくしゃみをするのに笑った。
「今からだと家にどんくらい?」
「七時半くらいにはつくだろ。まあ午後からだしな」
「ユニフォームの替えくらいなら貸したるのに」
「いや、部室に替えは置いてある」
午前中は一部のコートに整備のための業者が入り、あいたコートは一年生大会をひかえた後輩が使うため、三年は午後からの練習が予定されている。なにせ部員数が多いと女子テニス部とコートをわけたあとさらに班をわけてローテーションで回さないと使えない。レギュラー陣は監督の指導を多く受けはするが、日次の練習は一緒だ。
手首をつかむと跡部は重たげに瞼をもちあげるのを、まともに見れなくて視線をずらす。声が震えそうになって一度、唾をのんだ。
「……」
ことばがでない。けれど手をはなすことはできない。跡部には磁石でもついてるのかもしれない。片眉をしかめた跡部がもうあいた手で忍足の手をつかんだ。ひどく温かく、体温がしみてくるのに、にわかに涙が目頭の辺りを熱くさせるのにおどろく。
家に一人でもどってベッドに倒れこんだら、きっとわずかなぬくもりを捜して恋しくなる。膚の感覚器じゃない、もっと深いところに焼きついてしまった。
「……おまえな」
「あー、うん」
「今度にしろ。……休日の朝でも顔がみれない家族もあんだよ。おまえんとこだってそうだろ」
困った声に云わせてしまったと思うとあれほど固まってた手から力がぬけた。それを惜しむように跡部がすこしだけ触れてくる、体温に励まされた。
「今度な」
「帰りたくねえな」
低く云って歩き出す横顔に驚くと楽しむような色を青灰の眼がのせている。思わせぶりはせんでと言うと、白い歯を覘かせて闊達に笑った。
「嘘じゃねえよ」
跡部の好意はとてもわかりやすいかたちで、いつも救われる。
なにをこんなに焦っているのかわからない。
これから十年あと、と忍足は考える。
この手を確かに握りしめているためにどうしたらいいだろうと思う。眼差しと眼差しを睫毛の震えがわかるくらいの近しさで交わし、心臓の鼓動はどうしようもなくずれているとわかるだけの近しさで重ね、息だけで言葉がわかるほども傍ら。喜びの光もかなしみの雨もひとしく肩にうけて、思い出の片隅にいつだっているように時間を重ねていくために。
隣にいてもいなくても今日の日を忘れることなんてできない。忘れることが、明日という日に重ねられるだけであってほしい。ちがくてもいい。たとえ忘れてしまったとしても、きっと忘れたことすらかなしむことができる。人を好きになって泣いたりかなしむこともできないほうが、ずっと悲しい。
暁の光りが射しこみアスファルトを金色に耀かせていく。手を繋いだ。膝がすこし笑っている。
back