枕元で響いた着信音に起こされた忍足侑士は目をつむったままヘッドボードをさぐる。だが指先ではじき、滑った携帯は鈍い音をたてて床に落ちランプを点滅させた。ようやく薄目をあけた忍足は首から上だけを動かして床を見たが着信音がとだえるのに枕へ頭を戻した。腕を布団の中に戻しまた眠ろうとしたところで再び着信音が静けさをやぶる。急ぎかとあきらめてベッドから冷たい床に足を下ろして頭をいらだたしくかきまわす。
フリップをひらけば同居人の名前が目について、気安さから舌打ちをもらして電話をとる。
「遅くになんやの」
『鍵開けてくれ』
同じタイミングで玄関のドアが叩かれるのに溜息をついた。廊下にでて鍵をあけるまでにノックが5回、相当にいい気分なのか交響曲5番どおりのリズムだ。運命が扉を叩く音。
(酔っ払いやけどな)
「夜中にさわぐなや」
「おせえよ…って、なんだこれは」
「…ああもう」
シリンダー錠をあけただけだというのにせっかちにドアをあけるものだからチェーンが鋭い音をたててつっかかる。双方いらついて小さく罵りあった。
「鍵持ってないんか」
「もってたってチェーンかけてりゃはいれなかっただろ。閉めたのがお前なら開けるのもお前でいいじゃねえか。おい、水」
靴を脱ぎながら笑っていう跡部景吾に無駄な反論はあきらめて忍足はリクエストどおりキッチンの明かりをつけミネラルウォーターのペットボトルからグラスについでやるのだった。時計をみれば二時ちかいことからタクシーをつかったのだとわかる。スーツをハンガーにかけたところでちからつきたのか、タイとベルト、スラックスの前をゆるめたままソファな背もたれに腕をなげだして天井をあおいでいる。色の淡い髪が背もたれでくしゃついていた。
「ほら」
「ああ、悪い」
「呑みすぎと違うの」
「しょうがねえだろ、ようやく契約とったんだからよ。班全員で打ち上げだ」
「へえ、お疲れさん」
グラスを傾けていた跡部はひょいと器用に片方の眉をもちあげてみせ、形のいい唇を気持ちよくつり上げた。随分と機嫌がいい。目をつぶったまま、背もたれにおかれた指先がリズムを取るように動いている。あまり酔いが出るほうではないが、酒を飲むと跡部は唇があかくなり指先や目のまわりにわずかに血の色がうすく浮かび、肌の色がますます白くなる。
グラス一杯の水を、長く長く砂漠をわたったラクダが久々の水を待ち望んでいたように大事に飲み干して、実に満足そうなため息をこぼした。
「……いい気分だ」
「あっそ」
「なんだよ、拗ねてんのか」
「たたき起こされて怒らんほうがおかしいやろ。絡むなや」
いい加減眠気が限界なので欠伸をしながら、いえばソファに横になったどうにもだめな酔っ払いが絡んでくる。チョコレートやるから機嫌をなおせとはまたどういう了見なのだ。ポケットからばらばらとどこかのバーで出されたに違いないキスチョコを手の中に落として押し付けてくる。子供の機嫌直しには甘いものという言語道断な偏見に決まっていた。
両手にのせられたチョコレートを見下ろして顔をしかめる忍足の顔をしたから覗き込んだ跡部は、重そうに瞬きをして笑う。
「なんだよ、もっとか?」
「いらんわ」
「しょうがねえな」
そんなに拗ねんな、といった跡部は投げ出していた長い足をひきよせ、体を起こすと忍足の両手を掴んだ。アルコールに浸った体温で手のひらはあつく、手首に吸いついてくる。チョコレートをばらまくまいと思わず手錠をかけられたみたいに固まった忍足を見上げて、跡部の唇の両端がシンメトリーにもちあがり、すぐにぼやけた。
「ほんまに酔ってんな」
「いい気分だからな」
「あー、なにすんねんな、もう」
文句を垂れる忍足の唇からはなれた跡部はすぐ頬にも唇を落としてくる。不機嫌そうに顔をしかめたままの忍足をみて、意外そうに目を瞬かせて自分こそ拗ねたような顔をした。唇だけは笑っていたけれども構ってやろうとしたペットの犬か猫につれなくされた飼い主の顔だ。
「なんだよ、かわいくなくなっちまって」
「あんな……」
昔はこれで機嫌が直ったのに、といわんばかりの態度に頭が痛くなってくる。耳たぶがすこし熱いのは仕方がない。せめて顔だけでも赤くなってないといい。国際教育の賜物かなんなのかそれともペットに対する扱いと一緒なのか、跡部はよく十三才の忍足の頬やら額やらにキスをしかけておおいに驚かせた。簡単に顔を赤くした四年前の忍足のことを跡部はいまでもしつこく覚えていて、からかうためによくキスをしかけてくるどうしようもない奴だ。
(どうしようもないダメな酔っ払いや)
それでもほら、といわれれば言われたとおりおとなしくなって待ってしまう自分が恨めしい。
「……おやすみ」
犬でも褒めるみたいに耳ざわりのいい、ひどく優しい声をおとして笑ったままの唇が頬に押し当てられるのに、おやすみと返しながら酔っ払いだからしょうがないと忍足はため息をついた。もう十七になっていい加減手のひらだって跡部と同じぐらいになったというのに、チョコレートがなくても両手をつかまえられたままふりはらえないことが恨めしい。頬からはなれていく唇が名残おしいと思うことも、自分の鼓動が寝起きのときから二倍ぐらい早いことも、忍足の恋など知らぬ気に機嫌がよさそうなめでたい酔っ払いもみんなみんな恨めしかった。
忍足侑士が跡部景吾にはじめて会ったのは十三才の誕生日の十月十五日で彼は十月四日に両親を交通事故で失っていた。その日はなんの因果か跡部の二十才の誕生日だった。
両親を亡くした忍足と姉は保険と遺産とで学費も生活費にこまることはなかったが姉は医学生のため向こう四年は学生であったし、忍足はまだ義務教育中だった。姉は休学なり留年なりをして働くといったが長い目でみれば姉が国家試験に合格するほうが経済的には安定する。当面の問題は忍足の通う学校が私立であることと姉が一人暮しをするアパートからだと新幹線通学になってしまうことだった。
今の学校を辞めて姉と同居のできる学校に通うつもりだと葬儀から幾日かして遺産整理に立会ってくれた弁護士に言った忍足に手をさしのべたのが母の従弟で父の後輩にあたる跡部の父だった。
彼は姉弟さえよければ忍足に安価な住まいを紹介するから同じ学校に通えばいいと提案をした。負担をかけるわけにはいかないと姉弟がいえばじゃあ一定の生活費をふりこんでくれればいいといった。姉弟が黙ると、彼は駄目押しに亡くなった両親にはとてもお世話になったのだと言い、清潔な衿がみえるほど頭を深々とさげた。結婚のことでいろいろとトラブルのあった跡部の父母の仲をとりもったのが父だったと聞いたのは、随分あとの話だ。
実家のマンションを姉弟ふたりで引き払った日に迎えにきたのが跡部景吾だった。
夕方ごろ息子を行かせるから、という跡部氏の連絡をうけてはいたものの、初対面の跡部景吾はなかなかに強烈だった。姉は知り合いだったようで気安いものだったが忍足にしてみれば驚くほか無い。外見がまず自分の周りにいる人間のだれより強烈だった。中身も強烈だったときがついたのは同居してからだ。まじまじと見る忍足の身長だけのびたひょろくさい体を爪先から頭のてっぺんまで一瞥した跡部は、芝居の台本どおりとしかおもえないぐらい見事に片方の唇をつりあげ鼻で笑った。
「行くぞ」
言った言葉はただそれだけだった。学校があるため早々に帰りの新幹線にのった姉を見送った忍足の後ろにいた跡部は、さて、と言って車を発進させ、車中で自己紹介と共同生活のルール説明を簡潔にした。
「親父から話はきいてると思うが、お前と同居する跡部景吾だ」
「はあ」
「俺も学校だなんだで結構留守がちになるから好き勝手はしていい」
「……はあ」
「ただしルールは守れ。俺はお前に対して責任がある。外泊とか帰りが夜十時を過ぎる場合、締め出されたくなければ連絡は必ずしろ。携帯もってるか」
「今日、姉に持たされました」
「ちょうどいい。登録しとけ」
ぽんと投げ出された携帯電話を受け取った忍足を、信号待ちで停車したところで横目に一瞥した跡部はため息をついた。
「シートベルトは締めろ。死ぬぞ」
「や、それは大げさ」
なんと違いますか、という言葉はぴしゃりとさえぎられる。
「少なくとも俺の車に乗る奴は全員締めさせる」
「……はい」
「よし」
満足そうに唇をほころばせる、顔立ちが整ってるぶん笑わないと不機嫌に見え精悍さが目立つが、笑うととたんにやわらかくほどけて見える横顔に眼鏡の奥ですこし驚いた。跡部は一事が万事この調子だ。聞き分けがいい奴が好きだ。まるで調教される犬のような気分だが、いちいちもっともなことが多い。
そうして忍足は跡部と暮らし始めたのだった。
暮らし始めはさんざんだった。なんの映画で仕入れたのか、男所帯の朝食はフレンチトーストだと思い込んでいたらしい跡部はマグカップに卵液をつくって食パンをぎゅうぎゅうに詰め込んでみたりした。あとになってそれがダスティン・ホフマンのでてた有名な映画の受け売りだと忍足は知った。散らかすところまで完璧にトレースしていた。ワーカホリック気味なのも完璧だった。映画を知る頃には、フレンチトーストは忍足がつくることに決まっていた。いまから思えば家事を忍足にさせるための演技だったのではないかと思えるときもある。別に普通のものはつくろうと思えばつくれるのだ。
いつ好きになったかと訊かれればわからないと答えるしかない。好きだと気がついたのはほんとうにふとしたことだった。忍足が跡部に対する敬語をすっかりなくした頃、ある日、夜中に帰ってきた跡部の気配が忍足の部屋のドアを音も立てずにあけて廊下の明かりが頬を照らしたとき、おきてしまえばよかったのになぜかずっと息をひそめていた。胸の鼓動はなぜか早かった。聞こえてしまったらどうしようと埒のあかないことを考えた。やがてドアが静かに閉められ跡部の気配が隣の部屋にもどった時、ふとこの部屋にきて数ヶ月もしないころのことを思い出した。
ソファで転寝をした忍足を跡部は最初起こそうとした。揺り起こしたり声をかけたり、頬を叩いたりしたけれど眠かった忍足は放っておいてくれとそっぽをむいた。しょうがねえな、とため息がきこえたときようやく諦めて毛布でもかけてくれるのかと思って内心ほっとしたのだ。だが横向きに跡部は忍足を転がすと抱き上げてベッドまで運んだ。重いなと毒づく、けれどおこさないようにひそめられた声を耳と体の両方で聞いて、ドアの向こうに跡部が消えるまで寝たふりを必死でしていたのだ。
そのとき不意に、ああ好きなんや、という言葉が心に転がってきて眠りにおちた。朝、起きてもしっかり覚えていた。おはようという自分も跡部もいつもどおりの朝だった。
恋が始まるのに理由はないのだと誰かはいった。たしかにそうだ。気がついたら恋をしていた。I'm in love.時に言語は自国のものでないほうが的確に心に落ちてくる。すでに恋はきちんと恋の形をして当たり前の顔で忍足の中に落ちていたのだった。
はじめて跡部でティッシュを使ってしまったときの罪悪感は相当で、夕食をまずそうに食べていたら当の本人に具合が悪いのかと心配されるものだからますます罪悪感は募った。けれど跡部が二十から二十四になったように忍足だって十三から十七になってしまい、心の在りようだって体の在りように従わないわけにはいかず、好きと言う気持ちも体に伴って変わるしかないものなのだと思うしかなかった。
(にしたって不毛や)
返却された模試の結果を目の前にして忍足は思う。五月に某予備校でおこなった統一模試の結果はA判からB判、もうすこしレベルを上げてみればどうかと教師にも言われたところだ。跡部の部屋からギリギリ通えない場所ににキャンパスのある大学ばかりをいくつか、姉の通う関西の学校も第五希望あたりにいれてみたけれどそれもA判定。
要するに受験ってのは、塗りつぶしだと思えといった跡部の言葉を思い出す。覚えるべき丸をどれだけ的確に塗りつぶしていくか。塗りつぶした数が多い奴が受かるようになってるってだけだ、と最高学府を卒業した跡部は言ってのけた。
(あの家でれたら、諦めつくんかな)
思い出みたいに、やさしく思う日が来るのだろうか。来ればいいと思った。初夏の木漏れ日がカーテンの上にいくつも光の輪を描いて揺れる。午休みの図書館は見回せば閲覧する幾人かの生徒や、自習机を使用する同学年ばかりでひどく静かだ。オーケストラ部から弦楽器の間延びした音が聞こえてくる。
多目的ホールも備えた音楽室のある新棟で、秋の大会にむけてオーケストラ部の練習も佳境なのだろう。
元気だろうかと思い出したのは、三ヶ月前に別れ話をした彼女のことだった。中学からオーケストラ部でいつもクラシックのCDを図書館から借りていた気がする。シベリウス、ブラームス、ハイドン、モーツァルト。モーツァルトの音楽はなにもモーツァルトの人生にかかわりなく、美しさだけで完成されて怖いといっていたのを覚えている。某有名スペースオペラの主題歌になったのはホルストの「火星」だとかいろいろ教えてもらった気がする。
髪の毛を時折あげたときに見える襟足が好きだった。靴下のなかのやわらかい足首も好きだった。彼女と初めてセックスをしたとき、いらない見得をはった忍足は散らかった自分の部屋ではなく跡部のベッドでした。彼女は忍足の匂いがするといった。忍足にとってはどこもかしこも跡部の匂いがして、なにもかもたまらなかった。3回もした。彼女を帰したあと、シーツを洗う洗濯機の音を聞きながらほんのすこし泣いた。
(不毛や)
見せてみろ、と夕食を終えていった跡部に忍足は模試の結果のはいった封筒を渡した。ざっとみた跡部は悪くねえな、と呟いて忍足を見た。
「第一志望はここでいいのか」
「まあな」
「レベルあげてみろって言われなかったか」
「いや、別に」
「嘘つけ。レベルの低いとこに入ったところで、いいことはねえぞ」
「それが俺の選択肢のギリギリやろ」
跡部の灰青の目が照準をあわせるように細められた。
「どういう意味だ」
「国立にスイッチして間に合うレベルだと俺は思わん。レベル上げて私大どまりや。けどうちに私大に行くだけの経済的余裕はない、だったらここらへんが妥当なラインやろ」
「国立狙えばいいだろうが。選択肢なんざ自分で広げて見せろ」
「簡単に言うなあ」
「金の心配を、ガキがいっちょまえにしてんじゃねえ」
いまさら解りきってることを、言いはなった跡部にひどく心がささくれだって、放った声は驚くほど低く辛らつな響きになった。
「大学入ってまで目付け役はいらんいうとるだけや。俺の進路や。俺と姉ちゃんとで決めることで跡部に指図される謂れはないし、必要ない」
跡部は眉をゆっくりともちあげ、それから唇を開いた。
「そりゃ、うるせえのがいて気の毒なこったな。忍足、悪いがな」
形のいい唇は完璧な笑いの形になるのに、目をそらした。悪いが俺にはわからない、と落ち着いた跡部の声が忍足の耳を叩いた。
「俺はてめえとちがって両親も健在で金の心配はする必要がなかったからな、てめえの境遇だとか心情を理解はしてやれねえよ。想像はできるがな。想像なりに言ったけど、お前にきく気がねえならしょうがないな。姉さんと決めて、結果だけ教えろ。……それぐらいは、いいだろう」
わずかに揺らいだ声に眼差しをあげた忍足の眼から跡部の眼がそらされた。
余計なこといって悪かったな、と苦笑いをしていった跡部は模試の結果を三つ折にたたみなおして封筒にいれ、忍足のほうへ戻し立ち上がり背中をむけた。
「明日から週末まで、大阪に出張になる。せいぜい、羽のばしてろ」
おやすみ、という跡部に忍足はなにもいえないまま黙っていた。いっそ殴ってくれればまだ救われたのにと忍足は思って、怒られて謝るきっかけを探すなんて、あまりに子供じみていると自嘲した。たぶん、傷つけてしまったに違いなかった。
その週末、シリンダー錠が開けられる音に忍足はベッドから起き上がった。眠ってはいなかった。待っていたのだ、三日間ずっと。
「……なんでまたてめえは」
恨めしげにドアの向こうで唸る跡部に、わざとだと正直に言えばますます怒るだろうから適当に笑った忍足は一旦ドアをしめてチェーンロックをはずした。アルコールの匂いをまとった跡部は形のいい眉をしかめて、忍足を罵る。
「ややこしいことしてんな」
「堪忍」
「牛乳飲んで、とっとと寝ないと身長伸びねえぞ」
「跡部よりあったら十分やと思うねんけどなあ」
「……」
ち、と舌打ちをした跡部は正絹のネクタイを長い指で緩めながら、ミネラルウォーターのはいったグラスを差し出す忍足をじろりと睨んだ。
「……三日前と随分、態度がちがうじゃねえの。息抜きはできたかよ」
どかりとソファに腰掛けた跡部は、苛立たしげな自分の言動にさらに剣呑な眼差しで忍足を射貫いた。
「跡部、こないだのはほんまに、俺が悪かった。いらいらしとって跡部に当たってもうたんや。すまん」
「……ざけんな。ガキが」
「……ごめん」
「口先だけならてめえは聞き分けがよくて素直だよな、いつも。そのくせ、肝心なとこは何一つきかねえで黙って自分の意見ばっかり押し通しやがる」
「ごめん」
「うるせえ、この恩知らずが。縦ばっかでかくなりやがって。俺が」
俺がどれだけ、と跡部はかすれた声で呟いて両目を片手で覆った。忍足は狼狽した。泣いているのかと思ったのだ。
「ごめんなさい」
「だまれ、薄情者の恩知らずが。不孝者はどこへなりと勝手に行きやがれ。出てけ、バカ」
あてつけみたいに圏外の学校ばっかり選びやがって、と罵られて忍足は頭を下げるばかりだ。
「ごめんで万事済んだら裁判所も警察も端からいらねえんだよ、バカが」
どかりと跡部はローテーブルを長い足で蹴った。グラスが落ちて水をぶちまけた。しゃがみこんでグラスに手を伸ばした忍足を跡部が蹴った。
「痛いって」
「うるせえ」
「ごめんて」
「だまれ」
「……なら、どうしろって俺に言うんよ」
干上がった喉からようよう搾り出した問いかけに、てめえで考えてみろ、と投げ返された。
(だって、いつまでもこんな風にはおれんやろ)
早いか遅いかの違いだけで、いつか終わってしまう。
「金銭的な面なら、てめえが心配する必要はまったくない。今度きちんと全部見せてもらって、ちゃんとご両親に礼を言え」
そんでも出てくっつうんなら、止めねえけどよ、と跡部は言った。
今ここで跡部に寂しいといわれたら負ける、行くなといわれたら負けてなりふり構わず、出て行かないと言ってしまうだろう。こないだの言葉は皆みんな嘘で、ほんとはずっと傍にいたいと言うだろう。
(せやけど、そんな嘘は言えんし)
跡部が言うはずもないことだってよく知っている。
これ以上夜中にふざけたキスはして欲しくない、自分は跡部にふざけてキスなんてできない。傍にいて欲しくない、今すぐ離れてしまいたい、跡部が自分のことを好きになってくれないなら、これから何秒耐えられるかだってわからない。
「……ガキがき跡部は言うけどなあ、バカにすんなや、オレかてきちんと考えとるんじゃボケ」
「あァ?ボケだと?」
「ボケもボケや、なんぼでもいうたるわ、他人の気も知らんと好き勝手しとんのはどっちじゃボケ」
「だったら言ってみりゃ良いだろうが、バカが。言うなっていってるわけでもねえのに勝手に遠慮して黙って自分がなにかした気になってりゃ世話ねえんだよ、そういうのを余計なお世話っつうんだこのアホが」
てめえのヘタレを俺様のせいにするんじゃねえ、と一喝されるのに、頭の後ろで誰かがもういいですよ、といった気がした。
「……もう知らんわ」
「なんだと、てめえ」
がしりと襟元をつかんだ跡部の両手を見下ろし、ひとつ目をとじた忍足は正面から睨みつけた。
言わせたんはお前や、とはき捨てて目を訝しげに細める跡部の後ろ髪をひっつかんでのけぞらせる。不意打ちに苦しげに仰のいて、うすく開いた唇に噛み付いた。いなくなるなと癇癪を起こすような唇に、ずっとキスをしたくてたまらなかった。どれぐらい?きくのも無駄だ。
う、と小さく喉の奥でこぼした声をおいかけるようにキスを深くする。頭の後ろにあたためたハチミツをいっぱいにしたコップがあってゆらゆら揺らめいている。揺れて零れて首筋からながれおちていく温かさ。かさついた唇は唾液ですぐにしめって、それでもざらついて舌でたしかめるように舐めた。日向じみた肌の匂い、うすいアルコールの匂い、髪に染みついた煙草の香り、もうすっかり跡部のにおいでしかないラストノート、何もかもなじんでいるのに真新しいものに上書きされ、感覚器をいっぱいにしていく。
「……好きや」
知らんかったやろ、と詰って囁いて、もう一度唇をふさいだ。襟元をつかまえた手首を跡部の手がつかむ。引き剥がそうとする手を振り払い、捕らえなおして押さえつけた。体重をのせてしまえばもう筋力自体は大して変わらない。想像よりずっと細い跡部の腕におどろいた。跡部も驚いて、逃げようとしてソファの背もたれに叱られる子供みたいにちぢこまった。
「違うな、知らんふり、しとったんやろ」
すこし熱っぽい手がもっと熱くなって湿っていく。鼻先をくすぐるやわらかい髪、薄目をあけてみればきつく眉をしかめて蝶のはためきのように睫を震わせている。睫の先まで冗談みたいに金色だ。鼻筋にメガネのエッジが当たって擦れてすこし痛いけれどかまわなかった。息遣いをおいかけることのほうが大切だった。
ひきむすばれた唇の間に舌先をねじこんで歯をそっとなぞれば震えが伝染してくる。舌はものすごい敏感なところなのだと気がついた。別の生き物みたいに触りあって、唾液が混じってコップがどんどん傾いて溢れていく。人の歯はずっとなめらかで硬くて、けれどちゃんと神経が通っているのも知った。
殴られて錆の軋った味が広がった。 片方の耳に未練がましくひっかかった眼鏡が床に高い音をたてて落ちた。
初めて会う人間みたいな顔をして、瞬きもせず忍足だけをうつしこむ跡部の眸をのぞきこんだ。貝殻の裏側の一番きれいなところだけをはりつけたような虹彩の表面に暗い眼をした男がいる。けれど忍足はそれが自分なのだと知っている。ずっと前からしっていた。
「なんだ、おまえ、ふざけて」
いつもの顔で笑おうとする一瞬前の跡部の手首を掴んだ。掴んできつく指を絡めれば、跡部の顔はたちまち歪んだ。喉から落ちた声は自分のものとおもうにはあまりに低かった。
「シャレにも、冗談にもさせんよ」
間近い息も赤くなった唇もキスの余韻にあまりに生々しかった。
「……ガキのくせして」
「ガキだって、もう十七や。分別もある、常識もしっとる。……なあ、わかっとんのやろ」
しばしの沈黙のあと、どうしろってんだ、となじる跡部に、喉の奥があたたかい熱でしぼるように狭くなる気がしてすこし泣きたくなる。
身長も三センチ自分のほうが高い。お下がりでもらった手袋も上着も小さくなって丈があわない。もう牛乳でも飲めとからかわれて怒ることもない、転寝をしても抱き上げてベッドまで運んでもらうことや寝たふりをすることはできない。跡部の腕ではもう自分を抱きしめるには足りない。時計の針を逆回しにしたって永遠にもどらないことで、誰にもできない。猫背にうつむいた忍足はごめんと無性に謝りたくなってきたけれど、奥歯を噛んで必死にこらえた。
「こんなのは、おかしい」
「おかしいんやろな。でも、跡部」
謝ったところでどうにもならないことで謝ることは、謝るほうも謝られたほうもしょうがないことを思い知らされて余計に悲しくなるだけだし、忍足はなにも悪いことはしていなかった。忍足がしたことといえば、すくすくと大きくなって跡部を好きになっただけだった。後悔できること、することは微塵もなかった。
跡部の睫に唇を落とした。泣いていないかと心配にすこしなったけれど、唇に涙の味はしなかった。跡部が泣いているのかもしれないと思ったとき、自分の胸を苦しいほど満たした悲しみと喜びのそらおそろしい甘さと苦さ、行き場はどこにもなかった。溢れた水はコップからこぼれるしかない。忍足は諦めた。
「……諦めてや」
この恋を諦めることを忍足は諦めた。囁いてもう一度、唇をよせた。重ねた跡部の唇が「よせ」と拒むのを、手の中の指がふるえるのを忍足は知っている。けれど振りほどかないことも知っている。哀れみからでも優しさからでも構わない。許す跡部はどうしようもないばかだ。なじりながら少年は彼の体温をさぐる。心は体の外に一ミリだって出れはしない。
ならば触れる以外なにができるだろう?
next……夜明けの町で