「せんよ」
さぐるようにかたい親指が跡部の唇をなぞるのに瞼をもちあげる。肩をおさえつけていた重みが離れるのに起き上がった。襟元に手をのばされ視線をあげると、跡部にまたがったまま困ったように首をかしげて俯き、なにもしないというように掌をひらりとみせた。それから伸びた腕はくつろげられたばかりの襟元のボタンをとめ、忍足の両脇にだらりとたれた。
左眼のなかばを髪でかくした忍足は、鼻の頭に汗をうかせてすこし唇をひきあげて笑った。笑ってすぐに下瞼をひきつらせ歯を食いしばった。
「でも、謝らん」
肩口にゆっくりと額をおしつけられ、鼻をすりつけられた。すべった黒髪からのぞくまだ少年じみたほそい頚椎のでっぱり、寝巻き代わりのTシャツのした肩甲骨が開こうとして歯車がずれてしまったカラクリのようにぎこちなくうごいた。耳元にふるえる唇が近づいた。触れはしなかった。だが首筋はわずかに粟立った。目頭がしびれるほどきつく目を閉じた。身じろぎもできず、おさえこんだ呼吸で喉が上下した。
むきだしのフローリングを裸足であるくかすかな音が遠くなる。鼓膜にはりついた声にもならない囁きが消えるまで、真夜中の天井を見つめている体のどこかがてひどく痛めつけられていた。
好きだと、忍足はいった。ただ一度だけ。
夜明けの町で
Waltz2
郵便受けに新聞が落とされる音がした。洗濯機がまわる音が重く響き、思い出したように冷蔵庫が唸っていた。遠く新聞屋のバイクが遠ざかっていく。寝返りをうった跡部は首筋にはりついた髪を手ではらい、着替えもせずシャワーもあびていないせいで肌の上でくたびれた服の不快さに起き上がる。シャツのボタンをすべてはずし、スラックスを脱いでソファに放ると浴室へと向かった。
「おはよ」
「……おはよう」
浴室からでたところでのそのそと起き出した忍足がキッチンから顔をのぞかせる。新聞受けからとりだした新聞をひらきながら跡部が答えると冷蔵庫を開けたてする音が聞こえた。
「新聞、俺も読むからテーブルんとこだしといてな」
「ああ」
しばらく間があって、コーヒーは、と訊かれるのに頼むと返す。パンは、とつけたされるのにそれも頼むと返した。水をつかう音がきこえ、気配は洗面所のほうにいった。キッチンのコーヒーメーカーからあがった湯気が朝の光をにじませて白かった。何事もない朝だった。
首にひっかけたタオルで口元をぬぐった忍足はキッチン経由でトーストとヨーグルトのボウル、コーヒーを両手にもってもどってきた。テーブルに皿を並べながらソファで新聞を読んだままの跡部に眉毛をひょいともちあげる。
「随分ゆっくりしとるけど、仕事は?」
「午前休だ」
「そう、じゃあ俺すぐ行くな」
「ああ、皿は洗っとくから流しに入れとけ」
「了解」
ものの五分で皿の中身を片付けた忍足は制服の裾についたパン屑を払い立ち上がった。
「跡部」
廊下に通じるドアの前で忍足が立ち止っている。顔をあげた跡部にうつむいた忍足は首筋を右手で撫でた。それから顔をあげて跡部と目をあわせると、目元をたわませて和らげた。けれどすぐに眼差しはふせられ、いつのまにか削げた頬の上に睫の影がおちる。
「……行ってきます」
「ああ」
玄関のドアが閉まる高い音がする。結局読まれもしなかった新聞をたたんだ跡部は立ち上がって皿を片付けながら、バカが、と口の中で呟いた。流しに落とした皿はひどく耳障りな音をたてた。
ただいま、と二十三時をすぎたころ帰ってきた忍足がテニスバッグを床に落とした。制服のネクタイをはずし、スラックスのベルトをゆるめてメシは、とききながら台所にいった。
「あ、なんや、今日跡部が作ったん?」
「はやく帰ったしな。食ってきたのか?」
「部活の後でなんも食わんかったら飢え死にするわ」
いいながら冷蔵庫からラップのかかったボウルを取り出して電子レンジに放り込んでいる。保温になったままの炊飯ジャーによかったといいながら、ご飯をへらでよそいテーブルのまえに胡坐をかいてテレビをつけた。
「食うのか」
「食うよ。せっかく作ってくれたのもったいないし、腹へっとるもん」
画面のきりかえで部屋がわずかに明るくなり、スピーカーから大きな笑い声が響いた。ソファに腰をかけたまま、テーブルでしばらく食事をする忍足を見ていると、携帯の着信音が聞こえた。ひくいバイブレーションに跡部は自分のではないとわかって忍足を呼ぶ。
「たぶんメールやから、ええよ」
「おまえ」
「んー?」
「彼女とかは」
「おったよ。こないだ別れたけど。ご馳走様。うまかった」
がちゃりと忍足は箸を置いて、茶碗を重ねだす。立ち上がると皿を両手にもったまま、困ったように首をかしげて笑った。
「ちょっと皿洗ってくるから、待っててな」
五分もかけずに皿を洗い終えた忍足は制服をすぐに長袖のシャツとデニムにきがえて床に腰をおろした。跡部の足元で頭をなでてもらうのを待つ犬のような顔でみあげてくる。
「彼女、家に連れてきたこともあったし。知っとったやろ」
穏やかな声で驚かない跡部をみつめて当たり前のように言う。いつもより片付いた部屋の様子や、流しに片付けられた食器、到底ふさわしくない時間に回ってる洗濯機などで誰か客が来ただろうことは簡単に知れる。家にきた相手を雨の中わざわざ送っていくのだって限られる。
ちゃんとそういう、付き合いもできるけど、と忍足は言葉を切った。雄弁な沈黙だった。
「正直、流してなんも言ってくれんのかと思うとった。朝、いつも通りやったし」
「おまえだって」
それは許して、と忍足は首の後ろを撫でて猫背を丸め、両膝をひきよせた。
「でも、俺の親に顔向けできないとか、身元引受人としてとか、そういうアホみたいな説教はなしな」
黙った跡部に忍足は顔をよこむけてものやわらかに笑う。
「図星?まあ、俺、何回これ予想してたかわからんもん。むちゃくちゃ考えたしな」
ぎしりとソファに肘をついて忍足は跡部に近寄る。肩をすこし跳ねさせたものの、逃げない跡部に安心したのか右手を伸ばされる。
「……そういうのはよせ」
日向の猫のように目をほそめた忍足のたしかに熱を孕んだ指が、もう一度耳の脇をなでた。
「調子にのらしとんのはお前やろ。姉ちゃんに言ってもええよ。もう面倒見きれんって」
「それは」
「やりにくいんやったら、別に俺から跡部さんに言うてもええし」
「やめろよ」
「わかっとんねやろ、決めるのはお前や。義理も責任もなんも最初からないんやから。跡部は気にするかもしらんけど、気に病むこともなんもない。はっきり言うてや。もう無理やって、駄目やって、触るなって。殴ってでも、本気で。そしたら」
薄笑いをはりつかせた忍足は言葉を切る。
「そしたら……そんでも、そんでも俺はおまえが言わんのなら、つけ込むし、やめんよ。好きになってくれんでもいいなんて言う奴おるけど、そんなん嘘や」
舐めるように音もなく焦げつかせる熱をはらんだかすれた声、恭しいとすらいえる愛おしむ指先の動き、二の腕をつかまえられ襟首に唇をおしあてられる。
「俺んこと、好きになって。好きって、言うてほしいよ」
切実な声に、目をふせた跡部は手の甲で忍足の頬をかるく叩いた。卑怯な手だとはわかっている。
「……酒くせえぞ。どこで」
「俺、友達がいのある奴やからな、相談したら飲めやって。日ごろの恨みと思って、諦めえ」
不意に忍足は温かなため息を深々と落とし、やわらかい仕草で跡部の肩に頭を預けた。跡部は手をわずかにもちあげて、髪に指を通す。わずかに引っかかったのに、忍足が痛いと零した。だがすぐにほどけて髪は指から落ちていく。頭を撫でると、くつりと喉をならして忍足が笑った。
「跡部って一人っ子のくせに、こういうのうまいよなあ。元からオニイチャン気質なんかな」
「俺がじゃなくて、お前が弟ってだけじゃねえのか」
「あ、……そか」
不意に冷蔵庫のファンがうなる鈍い音がした。遠くバイクの走る音もきこえてくる。どこか近くの家でテレビの笑い声がはじける、だがそれも潮がひくようにしずまりかえった。口をつぐんだ忍足に跡部も黙る。
ず、と鼻をすする音にぎょっとして顔をあげる。ひらひらと忍足は否定の形で手をふって、下をむいたまま見える唇だけで白い歯をのぞかせ笑って見せた。
「あー、すまん。違うから、平気」
だがすぐに声は震えて潤み、唇は噛みしめられる。はあっと唇から大きく息を吐き、俯いて鼻の下におしあてていた右手で、眼鏡をずりあげて両目を覆った。
「すまん。ごめん、ちょっと、見んかったことにしといて」
跡部から体を離した忍足は呟いて目頭を親指とひとさし指でつぶして涙をぬぐい、深呼吸をくりかえす。あー、はずかし、とことさら浮ついた声でいって、髪の毛をかき回しずれた眼鏡をかけなおした。
「キス」
「あ?」
「キスさしてや、もっぺん。そんで……そんで、もう終いに、する」
「……泣くなよ」
「ふられるのに?無茶いうなや。……あんな」
呆れた響きのくせして存外弱りきった跡部の声に、忍足は片方の眉だけ器用にしかめてわらった。濡れた睫がもつれている。
「なんだよ」
「俺、よくチェーンロックかけるやろ」
「…ああ」
「あれな、午前様だと、跡部がキスしてくれるから」
「バカか」
「ああ」
もうせんよ、と笑った忍足は毒づいたばかりの跡部の唇を斜めしたからすくいあげて、やわくふさいだ。アルコールの微熱にうかされたふりをして、ことさら丁寧に呼吸を奪った。海とおなじ味がする唇の裏のやわらかいところをこすらせ、かさついていれば焦らず湿らせ、舌の先をあまく噛み歯をなぞった。
「おい」
「まだ」
まだや、と忍足はひくく呟いて鼻を跡部の鼻にこすらせた。だれかが悔しげに大地を踏みしめるにも似た鼓動の音が、耳の後ろから響いてくる。慄いた跡部の首筋をしめって熱っぽい手のひらでなぞり、襟足の髪をかきまぜた。おい、と小さく跡部はいいながら、引き剥がそうとはしなかった。唇を重ねるたび、心臓をきつくしぼりあげ浸していく甘い痛みに、何度呼びかけてもかすれた声で忍足は同じことしか返してこない。
「……まだ」
キスはひどかった。忍足の姉に、両親に、自分の親になんといい訳をするべきかと埒のあかないことが浮かぶほどに長かった。背中にソファの背もたれがあたり、頭に壁がぶつかった。逃げ場がない。指先がしびれた。
ずるいなあ、と忍足は小さく詰った。ばたばたと軽い音を立てて頬におちた生ぬるい涙はたやすく冷えた。濡らしてしまった跡部の頬をのばしたシャツの袖で忍足は宝石でも磨くようにぬぐい、キスで痺れた唇をようよう動かしておやすみと言った。
(ほら、水。またえらい飲んだなあ。ここまで酒のにおいすんで)
(ああ、サンキュ)
(どういたしま…………ええええ?)
(なんだよ、キスじゃ足りねえか?)
(オレ、女の子と友好を深めたいクチなんやけど)
(安心しろ、オレもストレートだ)
(野郎のキスはノーカンで)
(は。はじめてかよ)
(…………)
(もう一回サービスしてやろうか?)
(いらん。飲んだくれはとっとと寝ろや)
(遠慮すんな。謙虚さは美徳のひとつだがやりすぎも問題だ)
(いやいやいやいや近い近い顔ちかい近いから)
(てめえはおとなしく口をあけな)
(いやいやいやいやまんまそれ悪人のセリフやから)
すこし口をあけて、泣き腫らした瞼が夢をみているのかぴくぴくと動いている。鼻がつまってるのか、寝息は明かりのつかない居間へやたら間延びして響いた。もう到底はこべない図体でかけてやった毛布の下、ちいさくやたらと可愛いくしゃみをしている。ソファで持て余した手足を縮こめて丸まっている、眼鏡をかけっぱなしの忍足の不恰好さにバカじゃねえのかと毒づいて、それからすこし目をきつく閉じて胸のつかえに咳きこんだ。
のぼったばかりで真新しい冬の太陽が裸足の爪先にあたる。靄もアスファルトもむやみやたらと光らせて空の青がみえないぐらい眩しい、それらがかすかに潤んで揺れた。跡部は唇を舐めた。すこし腫れている気がする。執拗にこすられたせいだ。
ゆっくりとうつむいた跡部の額がひきよせた片膝にぶつかり、ごつりと硬い音をたてた。目をとじた跡部は忍足の寝息に長いこと耳をすませた。それからおもむろに床に手をつくと、俯いて首をのばし眠る忍足の頬にキスをした。ずりおちかけた眼鏡のつるに指をかけてはずし、涙でひえた眦にも唇をすべらせる。むずがるように頭をふった忍足の冷えた髪が跡部の頬をなでた。あらわになった耳たぶにも唇を落とせば、忍足の睫がもちあがる。
冷たい床につっぱった手は、はじめてのキスのときと変わらずに震えていた。
next……トランスファー