身じろぎや呼吸、あたりまえのことさえ忘れてしまったような跡部に唇をよせながら忍足はきつく引き絞った眉が痙攣するのを感じる。唇は別れに慄いている。喉は乾上って満足に言葉をつむげるかもわからない。かさなった唇のかさつきすらわかってしまう。忘れられるわけがない。忘れたとしても、他の誰かとキスするときに必ず思い出すに決まっていた。
泣くなよだなんて、無茶を言うな。
ためらいがちにそれでも確かに応えて、息をつげばこわばりがだんだんほどけていく、そのくせ俺を好きではないなんて嘘をつくのをやめてしまえばいい。
「おい」
「まだ」
お前が思うよりよほどお前が俺を好きなこと。恋とは呼べなくても愛と呼べること。この恋がおしまいなんて嘘だ。始まりもしなかったなら尚更、終わるわけがない。愛の形でずっと心の傷になる。そんなことも分からないのならすこしでも傷ついて他の誰と唇を重ねても思い出せばいい。泣かしたと小さな罪悪感だけでも持てばいい。子供じみている。愚かでばからしい。わかっている。
「まだや」
でも好きだ。
「……まだ」
トランスファー
Waltz3
「すんげえ面」
「……うっさい」
驚いたと猫みたいな目をまるくして見あげてくる同級生に、廊下のロッカーにローファーを入れながら忍足は無愛想に呟く。高校棟の一階は受験生である三年の教室だけでできているから、二学期も終りちかいこの季節に学校に来るものはほとんどいない。大半が予備校に通っているが三年の講師陣が安価で設けている冬期講習に参加する生徒もいないわけではなかった。忍足もその一人だ。なによりクラスに一人か二人しかいないものだから教室は静かで家にいるよりよほど集中力が高くなる。家でしてもよかったが家だとくつろぎすぎてしまうタイプなのか勉強はさっぱりはかどらず、外にでたほうが効率がよかったのだ。
「朝起きたら一重になっててん」
「むくんでるってかんじだよな。顔ちがうし」
「顔もっぺん洗ったらまともになるんかな」
だけれど正直、今日は剃刀でうっかり顎の横を切ってしまったから顔なんて洗いたくない。まして学校の水道にお湯がでる蛇口があるわけもない。想像しただけで首筋あたりが寒くなってきて鳥肌がたつ。冷え性の気があるから寒いのは嫌いだ。
目の奥はごろごろして痛いし、鼻の奥はやっぱりまだぐずついている。たいがい自分は涙もろいほうだと思うが流石に恥ずかしすぎた。
「ま、眼鏡があんならいいんじゃねえの。しかしほんと人相かわるなあ」
「うっさい」
ひらひらと追っ払おうとすると手を出される。ほそい目を眇めて見下ろせば、もう一度お菓子をねだる子供の仕草で手をだされた。
「なんやねん」
「お前んとこさあ、辻センの数学テスト昨日やったろ。アレの解答くれ」
「ああ、時間なかったからマル付けして今日解説やって」
「はぁ!?つっかえねえ!」
大きな声で怒鳴った友人に不機嫌に眉をしかめて忍足はつむじの真ん中を思い切り押さえつけてぐりぐりと圧迫する。痛い、といった友人は手を振り回して頭の上の忍足の手をはらった。
「お前、失礼なやっちゃな。辻センに文句言えや」
「やめろっつの、腹こわしたらどうすんだよ」
「身長が止まるツボとちがうの?」
「どっちでもむかつく!ほいで侑士は何点だったんだよ」
「95点」
「お前ほんと数学すげえなあ、じゃあさ、お前の答案かしてくれ」
「3限やからそれまでに返してな」
「りょーかい!あとで飲み物奢ってやっから」
「楽しみにしとくわー」
がらりと教室にはいった忍足は教室の後ろにおかれた掃除用具入れをあけると長柄の箒をとりだす。前後に設置されたエアコンを見あげると、箒をのばしてエアコンのスイッチを押した。
二年前に全教室に設置されたエアコンだが使用していない三年の教室はほとんど切られしまっているので、使用する生徒が自分でつけなければいけないのだった。難点といえば温度調節ができないことだが夏場は死ぬほどありがたいので文句は言わない。
すぐに温風が流れ出すのを見て箒をしまうと、鞄の中から教科書を取り出した。三限目まで授業はないから自習をするのだ。コンビニで行きがけにかってきたペットボトルを置くと参考書を広げた。
チャイムが鳴る音と上の階でいっせいに椅子が動かされる音に目を上げる。黙々とすすめたテキストは五ページ弱、黒板の上にさげられた時計は二限の終りを告げていた。エアコンのせいか喉が乾燥してすこし痛い。ペットボトルの蓋をあけたがすぐ飲みきってしまってため息をついた。
(ん?)
右手ひとさし指の横腹、第二関節のあたりに赤い傷がついている。エンピツを持ち直すたび、痛みがすこしあると思っていたらすこし血が滲んでいた。紙できったのだろうかと思ったが、にたような痕が第一関節のところにもある。歯型だ。女ほど角度が深くない。認識したとたんいきなり心臓がとびはねて熱をはいた。
(あ)
噛みつかれた。荒い息をこぼす唇があいて、のぞいた白いエナメルが食いこんだ。耳元で押し殺されていた息が不意に跳ねあがり、襟足の髪をかきまわされた。汗じみた膝がむきだしのフローリングを曇らせて滑り、もつれこんで肘も打った。膝もたぶん赤くなった。鈍く照るほどに潤んだ皮膚に口づけをおとして、手のひらでなぞって膝をおしひしいだ。二の腕をつかんで苦しさにか仰のいた喉仏にかみついて結ばれたままの唇をこじあけた。
(うわ)
ぶるっと首筋がわずかに粟立つ。目を閉じてノートに突っ伏すとエンピツのにおいがした。眼鏡のエッジが食いこんでいたが、とても顔をあげられる気はしない。皮膚の上にあまい膜がはりついたような気がした。いきなり熱の虫がはいずるような疼きをおぼえた指を左手でおさえこむ。
床にぐしゃついていた色のうすい髪が朝の光でわずかに金色になっていたこと、いつもふざけたキスばかりを仕掛け犬猫みたいにあつかってきたあの唇がはじけた果物みたいに赤い色をのぞかせていたこと。目が覚えてるだけじゃない、手のひらにだって押さえつければ張りつめたワイヤーでできたみたいな手首の筋のたしかさや、呼吸のたび開いてはとじた肋骨のくぼみ、その奥にある心臓のうごきさえ残っている。焼きついている。
よく覚えていない。好きだとか、なに考えてんの、とからちもあかないことを飽かずくりかえしていた気がする。なにもいえなかったような気もする。もうわからない。ただのこっているのは狂いそうな熱の記憶だけだ。記憶というのもおこがましいほど生々しい。息はひどい熱をはらんでいた。跡部はなんと答えたのだろう。けれど望む答えはなにもくれなかった気がする。ただ唇と熱があっただけで、ほかはなにもなかった。
(もう、どうしていいかわからん)
なにを跡部は考えているのだろう。
転がりこんできた年下はなかなか悪くなかった。
シートベルトの金具を鳴らしながらもぞついているのを横目にみながらウィンカーをだして右折していく。どうもシートベルトをし慣れていないらしい。助手席ですこし足を持て余し気味に畳んでいるのに結構身長があるんだなとぼんやり思う。随分まえにあった少年の父親も子供心におおきな人であったから、彼もそうなのかもしれない。同年代の友人の間ではけっこう身長が高いほうだろう。
それに意外なオプション機能もついていた。
「……なんなん、これ」
「洗濯物だ」
「それは見ればわかるんやけどな。なんでコレまとめとんの?」
この袋なに?と指でつまんだパジャマ代わりのスウェット姿の忍足に、休日の午前を満喫していた跡部はインターネットラジオを聴きながら新聞を捲る。
「クリーニング業者に渡すからにきまってるだろ。お前もだしとけよ」
「はァ?」
頓狂な声をあげた忍足に片方の眉を跡部は器用に吊り上げ、目を眇めて見せると口を開いた。
「忍足よ、てめえはバカか」
「バカ言うなや」
唇を尖らせて抗議するのも一切無視して跡部はしゃべりつづける。
「いいか、金ってのは時間を買うためにあるんだよ。時間が金に換わるっつっても過言じゃねえな。デパートの地下を見ろ。夕食をつくる手間を省くために優雅なご婦人方がごまんと溢れてるだろうが。駅前のタクシー乗り場を見ろ。帰宅時間を楽に過ごすためにサラリーマンがへべれけになって突っ立ってるじゃねえか。労働ってのは誰もがするべき手間隙を分業にして、金で時間を切り売りしてるってことに他ならねえんだよ。そして俺様は残業残業残業続きで、使う時間がないほど金を持ってる。さてここで導かれる答えはなんだ。いってみろ」
「……洗濯にかける暇があるなら金をだすってことやな」
アホか、と脱力してしゃがみこんだ忍足がクリーニング業者の袋をもちあげるのに跡部は眉を顰める。
「業者に渡す奴だぞ」
「電話で断っといてや」
「……お前がやんのか」
「せやでー。だいたい全自動洗濯機をなんで使わんのか理解に苦しむわ」
ボタン押したら終りやん、乾燥機もついとんのに宝の持ち腐れやんな、とため息をつく。
「まあ、跡部のはドライでないとあかんのも多そうやからなあ。出したほうが正解かも知らん」
着道楽のくせに手入れが悪いんやな、と淡々と呟いている。袋に突っこまれたよれよれのシャツをひっくり返してタグを確かめた忍足はさくさくと洗濯物を色物柄物でよりわけ、洗い方の違うものともわけていく。一回目の洗濯機を回した忍足は、洗剤と柔軟剤をかってくるから金をよこせといって出て行った。
(……おお)
内心感嘆の声をあげて跡部はきれいにプレスをされたシャツが畳まれているのをソファから見下ろした。湯気を手元から上げながら、アイロンを動かした忍足が跡部を見る。
「まあ、忙しい人には干すのも畳むのも手間やんな」
「俺はおまえに主夫をさせるために引き受けたわけじゃねえぞ」
見下ろして思いついたままにいえば、眼鏡にスチームが直撃したらしく、熱ゥ!と悲鳴をあげた忍足が顔をそむける。眼鏡をはずして赤くなった鼻の頭をこすった忍足は頭を掻いた。
「……せやかて、なんもせんとここにおんのは落ち着かんのやもん。ここに置かせてもらっとるわけやし」
小間使いを雇ったわけではなくて親の恩人の子供を預かったというのに、これはなんともややこしいと眉を顰める。図々しい輩は論外だが、かといって遠慮しつついられると苛めているような気分になって非常によろしくない。跡部はアイロンをかけ終えたシャツを膝の上で畳みだした忍足の背中に長い足を伸ばして、小突いた。
「てめえんちの小遣いはどうなってた?」
「は?」
「小遣いだよ。貰ってたろうが」
「ああ。なんや一定金額が一応決まっとって、芝刈りとか模様替えとか手伝いしたら臨時ってことで増やしてくれとったな」
「そうか。じゃあそれでいいな」
「話が見えんのやけど」
挙手した忍足がアイロンをおいて顔をむけてくる。
「あァ?てめえの眼は節穴か。話の流れを読めよ」
見てのとおり俺はこういったことに関しちゃ面倒だからよ、と顎をしゃくった跡部に忍足は眼鏡の奥で、どんだけ偉そうなんよ、と目を細めるが一切がっさい黙殺だ。
「この手のことをお前がやってくれると非常に助かる。かわりに小遣いを出すってんだ。小遣いも取り決めてなかったしな」
「……ええの?」
「付き合いだの買い物だのお前の年ならあるだろ。純粋に俺の金から出すなら文句はねえな。気にすんなら念書も書いてやろうか?」
「いらんよ、別に」
暗に信用してる、といわれた気になって可愛いところもあるじゃねえかと跡部は頬杖をついて、唇をもちあげる。
「書面でなんでも残しといたほうがこういうことはいいぜ。共同生活にケジメがないってのもなんだしな」
襟まできっちり糊のきいたシャツをもちあげて跡部は笑う。柔軟剤と日向の匂いがまじって眠くなるいいにおいがする。
(なんだっけか、こういうの)
ほんとうになかなか、年下の同居人は悪くはなかった。ああそうだ。
愛い奴、というのだ。
(それがどうしてああなるって予想ができるよ)
明日のプレゼン用資料の最後のページをプリントアウトボタンをおした跡部はプリンタの前まで歩いていった。だがちっともでてこない。印字の順番待ちなのかプリンタ周りにたむろしている連中は赤いランプが点滅しているプリンタのトナーカートリッジや給紙トレイをあけている。だが一向に事態は好転しない。
「そのプリンタ、なんか調子わるいんでいま業者呼んでますから。あっちの奴にして使ってください」
使用禁止の紙をもってきた事務員が歩いてきて遠いプリンタを指し示すのに跡部は諦めてデスクにもどった。再度別のプリンタに設定をなおして印字すれば今度は給紙トレイが空っぽだといわれ、プリンタの横をみればいつも横に積まれているはずの紙がない。ないとなればフロアの一角にまとめて置かれているところにとりに行くしかなく、箱ごととりにいってみればすでに事務員の女性が使えないプリンタから補給をしてくれた後だった。
「……」
ページにして一枚、プリントアウトするのに十五分もかかってしまった。苛立つわけではないが脱力に見舞われてしまう。ため息をつきながら赤入れをしようとしていたが、社内メール新着フォルダの件名をみて顔を顰める。クリックして開けば、明日朝一に予定されていた定例会議が担当上司の急な出張とテレビ会議も確保できなかったためのリスケのお知らせだった。
「……」
ちょうどよく終業のチャイムが鳴り響く。残業希望のメンバーが出す残業希望票に承認印をおした跡部はパソコンの電源を落として立ち上がると早々に帰宅することにした。明日の会議がお流れになったが資料はもう完成しているし、新規案件の繁忙期も終わって中休みの状態だ。それにどうも今日は運がよくない。なにをやっても駄目だ。星座占いを信じるわけではないが、これ以上プリンタに引きずり回されるのも癪だ。
しかし、やってしまった。
いろいろな意味でしでかしてしまった、と思う。地下鉄の構内を歩きパスケースをコートのポケットにしまいながら跡部は舌打ちをする。正直、部屋にかえりたくなかった。もう一度舌打ちをする。
忍足侑士です、と母音に癖がある西のものやわらかい訛りで名乗ったあの子供が、跡部をつかまえて好きだといいあまつさえ口付けをした。筆でもはらったような切れ長の目じりで結んだ雫が、下睫で一度とめられていっきにくずれ、唇の先でもう一度雫になって落ちていく、あのときの気持ちといったらなかった。
自分の部屋なのに自分が帰りたくないなんておかしい話だ。けれど忍足がいることを思えば足がのろくなるのはしょうがない。すこし階段をいそげば間に合うはずの列車を諦める。なまぬるい地下鉄の風が前髪をなぶりマフラーをはためかせた。
「跡部ー」
鳴り響いたクラクションに地下鉄の駅から出た跡部は振り返る。クリーニング店のプリントがされたミニバンが近づいて運転手側のウィンドウが下がり顔をのぞかせたのは昔なじみだった。
「慈郎かよ」
「おつかれ。乗る?」
「いや」
「つかお前んちの預かりもんも確かあんだよね。俺ってついてるー」
「……」
ドライバーが聞く耳なしな上、後続車がクラクションを鳴らすのに諦めて顔をしかめた跡部は助手席側に回ると狭くるしい車に乗りこんだ。いかにもゲームセンターでとってきたらしいぬいぐるみや窓をふくのにつかったらしいタオルがダッシュボードの上に所狭しとおかれている。
「今日帰り早いね」
「いまは暇な時期なんだよ」
居眠り運転になること必須な、どこでも寝れる特技のある同級生だったが車の運転は以外に躊躇いがなく気持ちのいい運転をする。左折をゆずってくれたドライバーに片手で礼をした芥川慈郎は跡部がしょっちゅうお世話になっていたクリーニング店の跡継ぎだ。小売店としてはあまり振るっていなかったのだが、跡部のずぼらさに呆れてはじめた引き取り洗濯サービスが受けたらしく、今では呼び出しの電話がしょっちゅう鳴り響いて電話も二台で足りないぐらいのいい儲けになっているらしかった。自宅にある車のマフラーが突飛な形をしているだとか車高が異常に低いのはいただけなかったが。
「そういや忍足の受験ってそろそろじゃね?」
「ああ」
「あんま受験生こき使うなよ」
「使ってねえよ」
「嘘くせえC」
あの後、早々にシャワーを浴びるとほっぽりだして来てしまったが学校はちゃんと行ったのだろうか。あの泣き腫らした顔で、と思うとすこし笑えてきてしまい、マフラーの下で口元をわずかにゆるませる。目は人の顔をつよく印象づけるところだ。存外かっこつけだから気にしてることだろう。
笑うとすこし気が晴れた。
「なに思い出し笑いしてんの」
「いや、なんでもねえ」
マンションの駐車場にとめた芥川は後ろから袋に入った跡部の洗濯物を取り出し、伝票を破り取る。
「はい毎度ォー。おしたりに洗濯めんどくなったらいつでも受け付けるっていっといて。あとこれ割引券……ってアレ?ねえや」
渡そうとしてポケットをひっくり返すがくしゃついたレシートや領収書、ガムの食べ残しがぼろぼろと足元に落ちるのに跡部はいらねえよと手を振った。うけとった手提げ袋をさげ、マンションの鍵を取り出したところで跡部は口をひらく。
「慈郎」
「んー?」
「お前この後暇か?」
「暇っちゃ暇だけど」
「じゃあうち来ないか。メシでも食ってけよ」
「えー、つか車あるから飲めねえし」
「飲むつもりかよ」
「泊めてくれんの?」
「あんまり騒がなきゃな」
教えてgeeに投稿すればいいんじゃね、という声が聞こえてくるのに跡部は目を醒ました。トイレで一瞬寝ていたらしい。飲みすぎたか、と頭をふって衣服を直して廊下にでる。いつの間にかえったのか忍足の声もした。
「バカにしとんの?」
「バカにしてるっつうか、あれで結構マジで相談乗ってくれる奴もいるんだって。……まあ、そういうのって他人が口出しできねえとこっしょ」
「……せやんな」
「つかもう一押しして駄目なら、まあ純情もてあそばれちったってことで諦めろって受験生。春がくるまで参考書がお前の恋人だって。女と電車はすぐ次が来るって」
「含蓄のある言葉やんな」
「っていってたのはおめーの同居人」
「名言やんな」
テーブルにひろがった小鉢を重ねて片付けながら相槌をうつ忍足の、制服をはいたままの脛を慈郎が蹴飛ばした。
「忍足ィ」
「なに」
「相槌うって流してりゃ、てめーそれで終りと思ってるだろ。マジに相談したから答えてやったっつうのに、お前のそーいうの、むかつく」
なかなか鋭いことをいう、と感心した直後、鈍い音がした。なんだ、と目を瞬いた跡部が居間にはいると床につっぷした慈郎が鼾をかいていたのだった。唖然とした忍足が跡部を振り返る。
「……一気にいまオチたで」
「一種病気かってぐらい、こいつ寝るんだよ」
「噂にはきいとったけどなあ。布団あったっけ」
よいしょと立ち上がった忍足は流しに皿をつっこむと、自分の部屋にひっこんで布団を持ってきた。
「ここでええの?」
「運ぶのもできねえからな」
「了解。――ジロー」
起きやー、といって慈郎のほっぺたをべちべちと結構容赦なくたたいた忍足はむずがる彼の脇に手をいれると器用にひっくり返して布団にのせ、毛布と厚めの掛け布団をかぶせてやる。マクラはないのでクッションにタオルをまいて代用にしてやり、居間の電灯をおとした。
「トイレにだいぶこもっとったみたいやけど、戻したん?」
「いや」
「寝とったんと違う?」
「……」
なんや、当たりかァ?と低い笑い声が響いたが、すぐにため息に変わり示し合わせたようにお互い黙りこむ。上滑りするたわいもない話のあとの沈黙は、品がないくらいあけすけでわざとらしく耐え難い。時計の秒針の音がやけに耳についた。自室に戻ろうとしたところで、慈郎に布団を貸したからすこし別の布団を出したいと忍足が跡部の部屋についてくる。不意に後ろからドアをおさえた手に振り返れば、眼鏡の奥ですこし笑った。
「なんもせんよ」
お客さんもおるし、とわざとらしく息だけでいうのを跡部は見る。そういうつもりではなかった、と言おうとしてやめた。状況的にどう見てもそういうつもりだったのは確実だったし、無意識だったのかもしれない。行動で証明できないことにどんな言葉を連ねてもいい訳にしか響かないだろう。
「なあ」
忍足の手がのびて跡部の手首をとらえる。左手の血管をおさえるどこか冷えぎみの指先が、ちいさく汗をかくこと、すがるように触れてきたこと、ちいさく唾をのんだ跡部は瞬きを一度する。ブラインドをおろした窓ガラスの隙間に、うな垂れた子供と所在無げな男を一人みつけて笑いたいほどおかしい気分になるが、現実に唇は笑いもせず声もでない。心臓だけがいやに早まっているだけだ。
「キスしても?」
きいたところで好きなようにしかふるまわないだろうと跡部は罵る。懇願の姿勢で許しを乞いながらたったの二回か三回でいいように振舞う癖がついている。だが唇は実際にはなにひとつ罵倒をこぼしはしなかった。目をふせたまま寄せられた唇が頬におしあたるときも、唇にかさねられたときもばかみたいに黙りこくっていただけだ。ほだされた。
慈郎がいまねているソファで眠りこけていた子供はどこに行ってしまったのだろうか。のびた手足をもてあまし気味にしていた子供は。耐え難いほどの熱を耳元におとす忍足と目を合わせる。指先は震えた。はじめてのキスのときと同じく。跡部は唇をようやくにつりあげた。
「……悪戯でも、してるみたいな気分だな」
罪悪感はきっと一生付きまとうだろう。諦めてや、と忍足はいった。絶望はある。なかったことにしてしまうことはできない。零れた水は重力に従うだけだ。
「淫行罪には、ならんと思うけど」
もう十八、といって肩に額をすりつけてくる忍足の口調に安堵が滲んでいることに、笑えてきてしまう。窓のそとにひろがる夜はひたすら暗くも深い。街灯の明かりやその向こうにどれだけ街の光がともっていたとしても夜の底にへばりついた小さなもので、星明かりすら消すこともできない。
俺って被害者なん?と呟いてくるのにますます笑えてきた。シャツをつかんだ忍足は、ずいぶん深いため息をついて、もうええわ、と呟いた。
「ずるくてもなんでも、もうええ。もう……―――好きや」
死刑執行でもいいわたされた囚人みたいな声だった。
「んだそりゃ」
「もう俺の純情なんぼでも弄んだらええんや」
俺のせいかよ、と口元をゆがめれば、顔をあげた忍足は片方の眉を顰めさまざまな感情をないまぜにして苦笑する。俺ンこと好きになって、好きっていうて欲しいよ、といつかとおなじセリフを呟いた。跡部は嘆息する。先日とまったく同じことをいうのだから、口先でどういおうと結局、譲る気は毛頭ないのだ。頑固ものだ。アイロンはどこだ、かけるからだせといった日とまったく同じだ。
「春までは、参考書が恋人やけど」
春に見とれよ、と唸った忍足にああそうかよと跡部は返す。夜は深く暗いが、やがて星明りをけして日が差せば霜柱はとけていく。空はだんだんと青をやわらかく溶かし寒々と凍えていた枝枝は目覚めの夢で花芽をおおきくしていくだろう。
「楽しみにしてるぜ」
云ったな、と念押しした忍足が晴れて進学先を決定したあとなにをしたかは後日談だ。
back