two stories town
Act.1
An 1Week Before
East Town 7thStreet
7:00 a.m
ことの始まりは一週間前、短い電話からだった。
コンクリート剥き出しの床の上で、ダイヤル式の黒電話がけたたましく鳴った。ひっきりなしのベル音が眠っていた高耶の頭を引っ掻き回すように揺さぶる。高耶が二日酔いで張りつく瞼を何とかあけると、破れかけのブラインドから差し込む陽射しが目を貫いて呻き声をあげた。喉が渇く。
イーストタウン7thストリートの一郭、バイト先の映画館に近い崩れかけた廃ビルの2階が高耶の住処だ。
オフィスだったらしいビルには、高耶が転がり込んだ時ステンレス製の机や椅子、ソファが埃を被って残っていた。ドアの蝶番がイカレて戸締りが心もとないのが難だが、水道は生きているし電気が繋がっているのを幸いに電話も繋いで、暮らしぶりはそう悪くないほうだ。家を飛び出したばかりの頃の、マンホールの下水の湿って饐えた臭いに満ちた地下生活を思えば天国にも等しい。
チーム《スペクター》はイーストタウンの5、6、7thストリートをテリトリーとする中規模のチームだ。構成員がおよそ三十人、イーストタウンの半分を『統治』する組織《武田》の傘下に入っているが、殆ど自立しているに近い。高耶がチームのメンバーに加わったのは三月ほど前、加わったつもりはないのだがチームの頭、三井にみょうに気に入られて、いつのまにか一員と目されるようになってしまった。
昨夜もその三井が夕方ごろ妙にハイな顔で押しかけて、しつこく酒を勧められて瓶を空けた。何でも《武田》のボスに目通りがかなったらしく、今度から組織の構成員に出世するチャンスが回ってくるらしいのだ。どうでもいい話題と自慢ばかり繰り返す相手に、高耶は酒を舐めながらいい加減うんざりしていた。
どうにか夜明け頃追い出して、水シャワー(ガスは繋がっていない)も浴びずにベッド代わりのソファに倒れこんだのだ。案の定二日酔いが体の芯を重く噛む。がしがしと頭を掻きながら、高耶はどうにか上体を起こした。
青みを帯びて見えるほどの黒髪に、癖のある整った顔立ちが人目を惹くものがある。何よりも強い光を宿した赤い目が印象的だった。寝乱れたタンクトップにフロントを緩めたジーンズが、まだ幾分か細さを残した体を包んでいる。
舌打ちしながら日に焼けた手を伸ばして受話器を取り上げ耳に押し当てた。
「……もしもし」
《仰木ィッ!?》
悲鳴のような切羽詰った響きに、高耶はスプリングのはみ出たソファから勢いよく身を起こした。とたん額のあたりを頭痛が貫いたが頓着せずに、受話器を更に強く耳に押し当てる。
「遠山か、どうした」
《死んだ…ッ!殺されたんだ、ヘッドが!》
一瞬頭が言葉を認識できなかった。さんざん酒を勧めてきた相手を閉口しながら追い返したのは、僅か数時間前のことだ。酔って少し足元が心もとなかったが、頭はハッキリしているようだった。目を剥いた高耶が受話器に噛み付く。
「どういうことだ!?」
《わかんねえよォッ!なんか騒いでんなって思ったら、もう、なんで、何で…ヘッドがッ!》
「おちつけ、バカ!いま何処にいる。すぐに行くから」
宥めるように言いながら立ち上がった高耶はすでに床に投げ出されたままのスニーカーに足を突っ込んでいる。
《5thストリートの“掃除屋”ンとこ……、すぐに早く来てくれ》
耐えらんねえよ、と受話器の向こうで涙混じりに呟く相手に高耶は強く頷いた。
「十五分で行く」
繋がった電波が切れる、かすかな音が響いたと同時に咄嗟に振り向いたのは、何か予感していたのかもしれない。
赤錆で汚れたドアに嵌めこまれた曇りガラスの向こうで誰かが近づく気配がした。気配を殺そうとしているらしいが、かえってそれが高耶の警戒を強める。
何かが、起こっている。繰り返し頭を叩く警鐘は鳴り止まず、危険を訴えている。
(一人、いや二人はいる)
廃ビルの裏手にある錆びついた鉄製の非常用階段の方にも僅かに人の足音が聞こえる。この分だと階段はどこも塞がれていそうだった。逃げ道も余裕も、きっと無い。
段々と迫ってくる外の気配に、極力音を立てないようにしながら、ソファのマットレスの下にあるベレッタと弾倉を探り出して、弾倉をジーンズの尻ポケットに、拳銃を汗ばんだ右手の中に握りこんだ。
Gジャンを取り上げると左腕に巻きつけ、ドアを見つめながらジリジリと窓際に寄る。ブラインドとガラスの外側には手摺もテラスも洒落たものは何にもなく、無味乾燥な空中が広がるだけ。それでも一階の窓上に軒が1メートルほど張り出しているのを高耶は記憶していた。前も後ろも挟まれた状況での、唯一の脱出路だ。
ドアの向こうで何か硬いモノが床を転がる音がした瞬間、高耶は窓ガラスに左腕を思い切りたたきつけた。
ガラスの割れ砕ける音に侵入者は躊躇いもなくドアを蹴り開けた。蝶番のないドアは衝撃のままへこんで軽々と吹っ飛んだが、部屋の主の姿は既になかった。糸のちぎれかけたブラインドが揺れる窓際に走りよって、下を覗き込むと、灰色のビルの隙間に影が滑り込むのが見えた。舌打ちすると身を翻して、ビルの外に飛び出す。
窓を割ると同時に空中に飛び出した高耶は、くるりと体勢を立て直し、きらめくガラス片と一緒にコンクリートの軒の上に飛び降りた。スニーカーの底でも殺しきれない衝撃が下半身を貫いたが、頓着している暇はない。ベレッタを口に咥えると、1階の軒に右手一本でぶら下がってアスファルトに両足で着地する。振り返る暇も惜しいと走り出した瞬間、鋭い銃声が追いかけてきた。
足元で弾丸が跳ねる。
(こんな街中で考えなしにぶっ放すんじゃねー!警察が来たら不法侵入で住んでたことがバれちまうじゃねーか!)
少々せこい悪態を吐きながら後ろを振り返ると、追っ手との距離が約百メートル前後、このまま逃げるならもっと都合のいい足があるのに気がついた。
入り組んだ灰色の路地を、次々と迷いなく曲がって飛び込んだのが、天井のベニヤ板が破れかけたガレージだ。半分ほどシャッターを開けるとガレージの中に滑り込んで、灰色のビニールシートをめくれば高耶の単車が見える。近づく足音を聞きながらシートに跨ってキーを差し込み、エンジンに火を入れるや否や、シートに身を伏せて思い切りアクセルを吹かした。シャッターとコンクリートの隙間から外に飛び出す。
頭の上をギリギリを掠めるシャッターにヒヤリとしたが、勢いよくハンドルを切って路地に飛び込む。スリップしかけて焼けたタイヤ痕と爆音を残して疾走する影を、追っ手は一瞬唖然として見送った。思い出したように銃弾を打ち込んできたのに、高耶は振り返ってお返しとばかり脅しに三発、引き金を引いてやる。見る見る小さくなった追っ手二人の射程距離から抜けると視線を前に戻し、高耶は更にギアを上げた。持ち上がりかける前輪を体重を掛けてどうにか押さえ込む。
ひとまず向う先は5thストリート。
三井の死亡の報せも真相も、朝っぱら起き抜けからの物騒な客の来訪の原因も、全てはそれからだ。
East Town 4thStreet
1:15 p.m
その日、直江は珍しく非番の日だった。
都合よく日曜日というわけには行かなかったが、平日だろうと休みは休み。久しぶりのベッドで目覚まし時計も掛けずに、思うがまま惰眠を貪った。十時ごろに起きて、乾燥したトーストをコショウのききすぎたスクランブルエッグ(オムレツにしそこねた)とすっぱいコーヒーで無理やり流し込むと、シャワーを浴びてのろのろと着替える。コンパートメントの大家の末っ子に、署から電話があったら知らせてくれるよう頼んで、いい加減借りすぎていた本を返すべく市立図書館に向った。
柔らかな光を受ける道の隅は放り出されたゴミや吐瀉物で汚れて、街灯には日焼けしたビラが貼りついている。建物は殆ど下品な色合いの落書きで飾られて、落書きが無くとも品性のかけらも無い放電灯に飾られた怪しげな劇場やバーなどが立ち並んでいる。建物の隙間からはみ出た汚い足が死んでいるのか生きているのか、誰も確認しない。
イーストタウンが毒々しくなるのは夜、汚れを塗り潰す闇を剥いでしまえば昼間はただ単に灰色で満ちた街だが午前中の人気が無い時だけ、心なしか清潔に見えるのだから不思議なものだと直江は思う。おそらくウェストタウンに住む上品なが見れば綺麗なハンカチで鼻を覆って、否定するに違いないだろうし、暇と金をもてあましたご婦人方が可哀想に、と涙を流して寄付を募ってくれるかもしれない情景だが、直江はこの猥雑な街が束の間見せる朝の顔が嫌いではなかった。
そんな一方で近所の、4thストリートにある市立図書館の蔵書は大したものなのも、気に入りの一つだ。今の分署に配属されたばかりの頃、新聞のネガを見る用事があって初めて行った。余り期待していなかったのだが、蓋を開ければ本好きにとっては宝の山のような書籍ばかり、自ら隠し場所を忘れたヘソクリを発見した時に匹敵するほど喜んだ。以来直江は非番のたびに、図書館に出かける。
平日の図書館は天井でゆっくりと回るファンのかすかな音と、ページをめくる音が聞こえるだけで、埃と古びたインクの匂いに書架に使われた木の匂いが混じっている。明かり取りの窓には磨りガラス、ぼかされた光が樫材の机に模様を落とす図書館は、外とは時間の流れが異なっているようだ。
延滞していた本を真っ先に返すと、初老の司書に苦笑交じりに怒られた。後はしばらく備えつけの机に陣取って、読みたいが買う気のしない本を読み耽った。喉の渇きと空腹を覚えて目を上げると、柱につけられた大時計の針が差すのは午後一時だ。思い出せば薄っぺらいトーストを食べただけで、腹が減るのも当たり前だった。
蔵書は良くても、コーヒーハウスなどの気のきいた店は入っていない。読み途中の本にしおりを挟んで閉じると、数冊本を物色して貸し出し手続きをした。何回も期日に返すよう念を押す司書に心中でため息をつきながら、ようやく本を借りると直江は図書館を後にした。
その時の直江がトマトトーストを食べたいと思ったのは全くの偶然である。
トマトに塩コショウ、チキンスープの素を入れて火に掛けたのを、分厚いトーストに乗っけるだけなのだが、なかなか美味しい。ガーリックがあれば更にいい。図書館と同じ4thストリートに、直江がたいがい昼食を食べるレストランがあるのだが、惜しいかなトマトトーストのような御手軽なものはなかった。だからトマトトーストを食べたくなった時は裏路地にひっそりと店を構えるカフェ&バーに行くのが、直江の習慣だった。自家製の腸詰が入ったチリ風味で、うまいのだ。
空きっ腹と数冊の本を抱えた直江はいそいそとかよい慣れた路地に入っていく。とたん、聞き慣れた音にはっと顔を上げた。
(銃声―――?)
そう遠くない距離だ。咄嗟にスーツの下、脇に吊ったホルスターに手を伸ばしたのは長年の経験の賜物である。
いくら物騒なイーストタウンとは言え、よりによって非番の日の、こんな昼日中から銃声を聞く羽目になろうとは思わなかった。舌打ちして、一瞬甘美なトマトトーストに足を向けようかと不真面目な考えが頭をよぎるが、腐っても市民の味方、なけなしの理性を使って銃声の聞こえた方に近づく。
ビルの隙間から少年の罵声に混じって、殴るような物音とくぐもった悲鳴が聞こえる。人数はそう多くはない。三、四人の少年が一人の少年を袋叩きにしていた。
(ストリートキッズのいざこざか)
とたんバカらしくなって直江は回れ右をしようかと思った。税金を払わないものに市民権はないなどと、言語道断なことを考えている。既にその頭の中で市民を守るという理性は食欲に白旗を上げて、真っ赤なトマトトーストが湯気を立てていた。だが、悲しいかな、トマトトーストは直江の胃袋からまだまだ遠かった。
直江の頭の横にクモの巣のような銃痕が出来た。景気づけか脅しか知らないが、興奮した少年が引き金を引いた流れ弾らしい。
トマトトーストにあっさり陥落した理性は、糸よりも細くプチリと切れる。
たとえ無用と罵られるイーストタウン分署配属といえど、(税金を払う)市民の平和を守る警察サマに向って、税金を払わない不良少年が銃口を向ける、これ即ち未来の公務執行妨害言語道断ゆるすまじ。と天上天下唯我独尊なみに傲岸不遜な怒りが赴くまま、直江は行動を起こした。
思考するより先に、抱えていた数冊の本を手放した。慣れた動作で直江はホルスターから愛用の銃を取り出すと、安全装置をはずして撃鉄を起こす。引き金を引くまでコンマ数秒、わずか一挙動だった。
「手をあげろ」も何もない一撃に、一人の少年の指と銃が弾け飛んだ。くぐもった悲鳴をあげて膝をついた仲間と銃声に驚愕して少年たちが辺りを見回すと、銃を構えた長身の男が一人、10メートルほど離れた路地に佇んでいた。黒いスーツであることを認めて、慌てて両手を振り口を開く。
「違うって、俺らはこいつの仲間なんかじゃねーよ、制裁していいって言ったのはあんたらのところのボスだろォ!」
「指、俺の、ゆびィッ!」
「話が違うじゃねーか!!掟破りは制裁するのが決まりのはずだ!」
悲鳴に混じりながら飛ぶ罵声に、銃を構えた男は器用に片眉を上げて見せた。それがみょうに様になっている。
「何の話かわかりませんね」
その右手の指が撃鉄を起こすのを見てとったのだろう、怯えを顔に貼りつけた少年たちは慌ててその場から逃げていった。捨て台詞もない見事な逃げっぷりだった。
冷たい一瞥を投げかけただけで少年たちの背中を見送った直江は、そう離れてない地べたに仰向けになった少年の横を通り過ぎ、自分の撃った銃痕の着いた壁に歩み寄る。ハンカチで銃弾を取り出した後、そこらへんに落ちていたコンクリート片で銃痕を削った。
「……ナニ、やってんの?」
足元からあがった掠れ声に、壁を削りながら直江は淡々と答える。
「証拠隠滅ですよ。うるさい犬に余り嗅ぎ回られたくはないので」
銃弾と銃痕でおおよそ銃の種類が限られてしまう。直江が使う銃はありふれたものだが念を入れておくのに越したことはないのだ。一般市民に発砲したのがバレるとさすがにまずい。少し大人気なかったか、と今ごろ反省する男だ。
「あんた、オレのこと消しに来たんじゃねーの?」
今ならチャンス、と投げやりに呟く少年の声を背後に、直江はコンクリート片を放り投げて手についた砂埃をはらった。
「あなたを殺すとか、ボスとやらも彼らが勘違いしただけで知りませんよ。これから遅めの昼食に行こうとして通りがかった、しがない一般市民です」
問答無用で未成年の指を吹き飛ばしておいて一般人もクソもないのだが、直江は真顔で答えた。真面目くさった直江がおかしかったのか、少年は喉を鳴らして苦しそうに笑った。
ボロ雑巾という形容が比喩でないほど薄汚れた少年の体から、殴打されただけではない血が流れているのを見とって、直江はしゃがみこんだ。左手で血の溢れる右肩をきつく押さえている。
「銃で撃たれたんですか?」
質問の答えは返らない。直江の顔が軽い驚愕に彩られた後、口元に苦笑が刻まれた。しゃがみこんだ姿勢のまま、そろそろと両手を挙げる。
「手が震えていますけど、大丈夫ですか」
「……うるせえ。動くな」
明らかになけなしの体力を振り絞っているとわかる腕が、直江に向って銃を突きつけていた。さっき逃げた少年たちの置き土産を拾い上げたのだろうから、油断のならない少年だ。
乱れた黒髪の隙間から覗く赤瞳の毅さに、なぜか血が沸き立つのを感じた。
既視感。記憶を引掻く追い詰められた眼差しに、かつての自分を重ねた直江は笑う。確かに一つの生活の形が壊れた十五年も前のあの時、自分もこんな目を迫り来る敵にしていたのだろうから、わずかな同情と憐憫を織り交ぜて笑う。
「言っても無駄でしょうけれど、あなたに害意は持っていませんよ」
寝転んだままの少年は答えない。銃口と直江の距離は1メートルにも満たない。どんな射撃の腕をしていようと、弾丸は確実に直江の胴体にめり込むだろう。非番の日でなければ防弾ジャケットをしていたのだろうが、図書館に出かけるのに武装するはずもない。そこまで考えて、この至近距離なら肋骨が折れるから全く意味がないなと、直江は呑気に考えていた。
「それで私は何をすれば良いんですか?出来る限りご注文に添うように致しますが」
ちっとも脅迫されている緊迫感を見せない直江に、少年が口を開こうとした時、空を裂くようなサイレンの音が響き渡った。何度か続いた銃声に近くの住民が警察に通報したらしい。
銃を握る少年の目が僅かに直江から逸れた一瞬、直江にとっては充分すぎるほどの時間だった。
銃を握る手を捉えざま、懐に飛び込んで捻り上げた。痺れた腕から銃が硬い音を立てて落ちる。ごく普通のベレッタだ。アスファルトに落ちた銃に伸ばした腕を、直江の膝が押さえ込んだ瞬間、少年の喉から苦痛からとも絶望からとも取れる呻き声が洩れた。
「離せ!」
「そういわれて離すバカがどこに居ますか。大体あなた自分で満足に動けないじゃないですか。ろくに抵抗も出来ないで抑え込まれるくせに、どうして他人を脅迫するんです。困った人ですねえ」
少年の手から落ちた銃を取り上げてスーツに突っ込んだ直江は、器用に少年の腕を背中に捻り挙げて、うつ伏せに押さえ込んだ。サイレンの音が段々近づいてくる。時間が余りない。
「そんなのてめえには関係ないだろう!」
「それが関係あるんですよ。警察とは顔をあわせたくないし、あなたによけいなことも喋って欲しくないから、あなたと一緒に逃げたいんです。だから暴れないで下さいね」
無駄なことだとわかりきっている科白をほざいた直江は、少年の返事も待たず、その延髄に手刀を入れた。さっきから殴られ続けていたのもあって、少年はあっさり意識を手放した。
ぐったりとした体を直江は右肩に担ぎ上げると、走り出そうとして図書館から借りていた本の存在を思い出す。面倒くさいと思いながら拾い上げると、直江はサイレンの音に急き立てられる様にして、その場を離れた。
人気のない路地を選んで進みながら、直江はさてどうしようか、と考えている。少年の傷は明らかに銃創だから、病院に連れて行くと通報されてしまう。そうなるとなし崩しに直江が無意味な発砲をしたことがバレてしまうかもしれない。それは困る。
(うちに連れ帰るしかないか)
幸いにして大家は楽天家のロマンチストだから、御得意の手八丁口八丁で丸め込めるだろう。まあ事件の関係者を特別に保護しているだとか言えば、アクション映画の好きな大家のことだ、一生懸命秘密を守ってくれるに違いない。
(しかし、『掟破り』か)
とんだ拾い物をしてしまったものだ。
イーストタウンは非合法の秩序が統制する街だからこそ『掟』の遵守が絶対だ。様々な組織が利害で結びつき抗争を繰り返し続けるが、一定の規制がないわけではない。ギリギリ境界線上の、だからこそ絶対最低限の『掟』が存在する。いわば『掟』は何でもありのイーストタウンに残った最後の信用だ。
破った代価は罰金でも何でもなく、当人の死でしか贖われることはない。
おそらくこの少年も、何処かのチームに所属しているのだろう。ならばチームを挙げて『掟破り』を粛清するはずだ。粛清は少年が死ぬまで無期限に続けられるだろう。
トマトトーストを食べたいと思ったばっかりに、随分な厄介ごとを背負い込んでしまったようだった。
だが直江の顔は笑っている。
next