驟雨1
慶安十年は、特に雨の少ない年であった。
泰華国首府、不夜宮と名高き蕃胡。
その西郭、白明街。
蕃胡は天子たる皇帝の坐す陰陽の要、ゆえに易にしたがい五行に則り碁盤の目のように道は張り巡らされている。四方を大まかに東西南北に隔壁で分けられ、それぞれを胡中街、白明街、南天街、宮城となる。南天街は主に宮城に勤める官吏の官邸や私邸が連なった街で、市井のものが住み暮らすのは主に胡中街と白明街だった。
胡中街は西域からの商胡が泊まる官営の宿坊や、酒楼、妓楼が軒を連ねる花洛がある。かつてはひと月に一度だった市が十日に一度になり、やがて三日に一度、日毎となった。今では夜市、夜明けからはじまる鬼市が催され、不夜城という呼び名にたがいない。
一方の白明街といえば寺社仏閣の街。仏教や景教、回教(イスラム教)も有り、かつての婆羅門寺院や、道観(道教寺院)が並び立ち、そこかしこで祭礼が行われて香華の煙が絶える暇もない。
広大な寺社のうちには、立春をはじめ雨水、啓蟄と春は花信風の訪いに歴乱と百花が咲き零れる園林、火を禁じる寒食節が過ぎ去り、殿上から龍燭を持った使節が火の気のない街を歩いて寵臣の下へ行けば、暦は百気清浄明潔たる清明となり、いよよ春は盛りだ。
落花流水、行楽に時を費やし惜春賦を口ずさむうちに紫薇が咲き立夏、芒種、夏至とくれば黄道吉日、太夏節が催されたのはつい先日のこと、いずれ六月なしといわれる炎暑、緑陰濃やかな鏡池に佇む庵、さがる水晶の簾を掲げれば万朶の薔薇の香りが馥郁と漂い、僅かな涼味を得て酒盃を傾ける隠者が謳うのもまた遠いことではない。
石畳も美しい境内には百戯と呼ばれる雑技が催されている。跳索、吐火、呑刀、影戯に傀儡戯、かと思えば筮竹を鳴らす易者、骸子ふり、いかさまぎりぎりの囲碁うちに、大剣を片手に腕試しをするもの、じょうんじょうんと鳴る銅鑼の音に合わせて身軽に飛び跳ねる童子たち、小さな天幕の中で寸劇を見せるものもあり、「好!」の掛け声と拍手が小さく響いてくる。
露天に人を当て込んでの商人が集い、饂飩、饅頭、麺麭、飴細工、煎り豆を売るもの、掲げられた色さまざまの幟が河畔をゆく風に誇らしげにはためいていた。
いちいちあげつらえば枚挙の暇もない。
また寺院には北夷南蛮から東海の花、泰華国より叡智を得ようと訪れた留学生が仮寓することも多く、私塾に通う者や科挙を目指すもの、あるいは既に進士及第した者などと、とかく識者、文人墨客の姿が白明街には目立つ。当然のことながら道ばたに座る古老が然る大家であったりすることも少なくなく、分子茶館の軒下で舌鋒を交わしあう憂国の士もあり、胡弓の音に合わせて酒盃を片手に詩を吟じるものもある。書画や筆硯を売る店もまた多い。
その春。
東郭に当たる胡中街の入り口、青綺門は春明門とも呼ばれ、西方からの客人を迎えいれる門である。
はるばると火焔山の麓を通り砂漠、草原を越えてきた隊商が荷をおろし、数年ぶりにある旧友と久闊を叙するのは目新しいことではない。
それはまた、武門・上杉の嫡子・景虎も例外ではなかった。
「直江」
「お久しぶりです」
眩しそうに目を眇める、胡服の男。彫りの深い顔立ちと日に焼けた肌、どことはなしに乾いた印象がある。泰華に服属を誓う票族の若長だった。
「わざわざ出迎えなくてもよかったのに」
「見回りがあっただけだ。最近夜盗が多い」
素っ気無い返事を返しても直江はなんら気分を害した風もない。
博買務と言う
府庁がある。鉄・茶、および塩を民間より買い上げて専売する国府直属の府庁であった。武器となる鉄の掌握は国にとって必要不可欠であり、また塩は海岸ぞいを覗けば、一部で産する岩塩に依存するのも否めず、茶も同様のことが言える。よって国内での流通を公正に規するために国が一括して民間に売るのが習いとなっている。
と言うのはあくまでも建前であり、販売権を独占することで歳入を潤すのに都合が良いのに他ならない。茶、塩はいずれも需要の減らない、税を課すには都合がよいものだ。
西域からもたらされるものは玉石、食物、風俗と様々であったが、泰華が西域へもたらすものも当然ながらある。絹布、陶器、紙、貨幣、また遊牧を常とする民にとって死活ともいえるのが茶だった。
「橘三爺!」
「なんだ」
「それが――」
直江の顔から血が引いた。絞り出した声は縋るようだった。
「相違、ないか」
「……
来晩了」
なんてことだ。
(――――昴星)
「なんだぁ?」
ぱらぱらと夕闇迫る街路を人影が動いていた。家路に向かう足取りとはまた違う。頑なに顔を向けずに歩み去るもの、おそるおそる近寄っておびえた猫のように跳ね上がって飛び退り、何度も振り返りながらまろぶように去るもの。俯くようにして動かないもの。眼差しが向かう先が遠ざかるものであれ近寄るものであれ、人々の動きには中心があった。
傾きかけた高楼がひしめき合う、まるで森がわずかに拓ける、その間隙のような場所。昴星の目には、街は夕暮れに黄色く染まり、薄らいで遠ざかる光に佇む人々は灰色に見えた。みな奇妙に表情を欠き、呆然とソレを見ている。斜めに傾いだ木札が傍らに一枚。墨痕も鮮やかにただ二文字。
『誅罰』
ああ、また誰かが見せしめになったのか、と痛ましい気持ちと同時に自分ではなくて良かった、という乾いた思いが渦巻いて、判然とせぬままに昴星の中に澱んだ。恐ろしいと思うことも処世を身につけた今では麻痺している。好奇さえ湧く。薄情と自嘲する気にもならない。日常だからだ。
票族のみにかけられる人頭税や労役の代価を滞らせた、あるいは官吏の機嫌を損ねた、にもかかわらず賂を差し出すだけの財を持たない者がこうやって、三月、あるいは半年に一度、刑に処せられる。軽いものから笞刑、棍刑などがあるが、今日はまた酷いようだ。
凌遅刑という。人体の急所のことごとくをはずし、いかに命と苦痛を長引かせるかを本位に置く。
人並みに引かれるように群がるのと同じぐらいに、バラバラと人は散っていく。気がつけば立ち尽くしていた昴星は、人に押されるようにして列の最前にいた。後ろにさがろうにも、生憎人が固まったところのせいでなかなか出来ない。見ていて楽しいものではない。
今日は早く帰らなければならないというのに、困ったことだ。
立て札の傍らには布の塊。布の塊の傍に、三尺あまりの赤褐色の塊があった。肉が腐敗する甘く饐えた匂いがわずかに鼻についた。唸るような音は群がる蝿だ。
鳥葬のためにうち捨てられた骸のようだな、と思った。高山に住む吐蕃の民は、死者を鳥葬にする。屍を鳥が啄ばみやすいように大刀で切り刻むのだ。
それにしても奇妙な塊だ。まるでうずくまった獣のようにも見えるが、見たこともない。違うようだ。肌の色はなめし皮のようだった。湖よりも更に大きな水、海にいるという絵草子で見た生き物、そうだ海豹とかいうものに似ているのだ。
(なんだろう)
布の塊の下から覗くアレは。
地鳴りのような唸り声がした。蝿の羽音ではない、ひび割れ掠れた誰かの声だ。まさか、と思いながらへばりついた目は、布の下から覗く繊い指であったものから離れなかった。
ひゅうと喉が鳴った。こめかみを鷲掴みにされるように、何かが圧し掛かってくる。耳鳴りがする。喉が渇き、息をするのにひどく力が要った。
「あ」
見えなかったが、人だ。そうして見れば、確かにそれは人だった。思えば刑なのだ、人でなければおかしいのに、今まで全く気がつかなかった。気がつかなければよかった。恐ろしい。
土ぼこりに血で固まった髪の毛、隙間から覗く顔は殴られて青紫になり、腫れ上がっていて知り合いも判らないだろう。張った乳房、わずかに膨らんだ腹が身ごもっていることを示していた。鉈で切断された傷が、血止めのために焼け爛れ黒灰にまみれているのは慈悲からではない、失血で死ぬことのないよう苦悶を長引かせるためだ。腐肉に群がる黄金の蝿だけが肥え、女の大きな傷の上をのろのろと這った。
だが違う。恐ろしいのは孕み女が虐げられたことではない。
それを目で追って、昴星の喉からやわらかな空気が漏れた。
(どうして)
「――――ぁ」
木彫りの簪が落ちている。
(どうして、こんな)
洩らした声は幽けく、ただひとりにも届かないまま、ほとりと昴星は膝をついた。夕暮れの闇が落ちる。
「梅芳」
あるべき四肢がなかった。
紅い
轎子から介添え人に手をとられて、恭喜の声と蒔かれる花の祝福。赤い婚礼祝いの長命灯が門先にかかっていた。閨房で向かい合った時は破瓜のとき、おそるおそる顔を隠す布をあげた十六の自分に、紅のなれぬ唇ではにかむように笑んだ幼馴染みの髪を飾るため、婚約が決まった時に贈った。
「なんてことをしてくれた!」
数年をかけ泰華の膝元にすりより、多くの朝貢と行き来の財貨、それらをいとわずに友誼を結んだのもすべて票族の扱いをあげるため、先遣りに利用される猟犬のような身分から解き放たれるために慎重に慎重を重ね、先日ついに竜顔を拝する謁まで賜った。
それらすべて、この一本の矢で瓦解する。
腰に佩いた剣を抜き放ち、鮎川は昴星の喉下に切っ先を突きつけた。頭がどうにかなりそうだ。すべて、そう、すべてだ。すべてが無駄足になった。たった、たった一本の矢で。この口惜しさをどう抑えれば言いと言うのか。抑えるつもりもない。
怒りに目を青く底光らせる鮎川に昴星は片頬をゆがめて笑った。
「俺を切ったところで流れが変わるかよ。変わるまい。切られようと殺されようと俺にはもう、どうでもいい。矢は放たれた。戦は始まる。そうだろう、直江」
酔ったように浮かれきった声で歌うように昴星は言う。
「雪解けの川が砂漠を貫き溢れるように、雪崩うつ騎馬が大地を揺らすぞ。怒号と火矢が靖州の天を焼く。水は血の赤に染まる。草すら赤々と燃えるだろう」
「鮎川、帰るぞ」
「直江!」
裾を翻し立ち上がった直江に鮎川は目をむく。天幕の布を跳ね上げ、馬によどみなくクラを乗せるのが見え、剣をおさめぬままに鮎川は天幕の入り口までかけた。
その背中に嘲笑が浴びせられる。
「そうだ、直江は正しい。俺にかかずらってる暇があれば取って返し、集落の防備を固めるぞ。もはや戦は始まっているのだ」
「この・・・・・!」
振り上げた右肩を抑えたのは直江だった。
「止めるな直江!お前はなんとも思わんのか!」
穏やかと言えるほど凪いだ顔をしているのに呆気にとられ、暴れる鮎川の力が抜ける。転瞬、昴星の体が勢いよく吹き飛んだ。直江が蹴り飛ばしたのだった。
「貴様が起こした戦だ。最後までその眼で見ろ。男手一人たりと失うのは惜しいからな」
「答えろ!直江!」
「あなたに何が出来るんです?あなたが何を見たというんです?この四方海内に遍く聖上の徳は及ぶと、この都から出たこともないくせに信じきっているんでしょう?だからあなたにはわからない」
「答えろ!」
「あなたにはわからない」
うめくように繰り返した。
「これを、お返しいたします」
鬼工の作と謳われた希代の名剣、皇帝から下賜されたそれを返すと言うことは。建国の功臣が佩いた剣を返すと言うことは。
「上杉景虎、今日をもって招安氏に任ず。白旗西軍をもって靖州の騒乱おさめよ」
礼式どおりの九拝。
「―――是」
君ニ勧ム金屈指
満酌 辞スルヲモチイズ
花発スレバ 風雨多ク
人生 別離足ル
設定等