驟雨【序】










勧君金屈指
満酌不須辞
花発風雨多
人生別離足

于武陵「勧酒」







雨が降っていた。
泰華(たいか)西北、靖州、州都・康琉。
草原を風とともに動く遊牧の民、剽族とは異なり、丘陵の北にできた森と気まぐれのように湧き出た泉に張り付くようにして畠を耕す人々がすみ暮らしている。

都とは名ばかりの鄙びた商舗(みせ)と家屋が狭い城壁の中で身を寄せ合ったような都邑(まち)である。天山の峻峰を北に通り草の道と呼ばれる西方へといたる交易路、その要衝。

秦の始皇帝が築いた堅牢な長城は草原と山河を貫き、龍の屍のように横たわっている。えいえいと連なる竜骨の上、女塙と呼ばれる射矢のための窪みから一人の男が顔を覗かせた。

雨下、夏を迎え色づき始めた草の緑がゆるい丘陵にたたなづいて広がり、垂れ込めた灰色の雲が重い。その彼方。

「……来た」

―――天下擾乱(じょうらん)し英雄並び立つ。

皇室の苗裔・後斉(こうせい)を名のる韓が実権をうしなって久しく、諸国が覇をきそう群雄割拠の時代であった。動乱はおよそ百余年の間つづき、その韓室に満九歳になる皇帝が即位、そのわずか二年後に外戚として執政をおこなった李翰(りかん)に禅譲し、李翰は元を庚安とした。

韓王・李翰は庚安元年、隣国の恭を陥落せしめ、大陸を縦横に貫く行路の要たる蕃胡を手中におさめた。東西の富が流れいる蕃胡の資本を前にくだったのが三国、残る趙を下し、嬰水以南、支流である鴻水(こうすい)ほとりに拠をおく峯国首都・鴻元を二万で攻め、峯軍五千をその軍門に下した。

それが庚安十四年・春のことである。翌・庚安十五年、李翰は峯国第五代国主・平塙王(びょうかくおう)より王位を譲られ、鴻南十二州を束ねる峯王となり、同年、国号を泰華とあらため、蕃胡に遷都した。

佳日にて泰山頂上にて天神を祭り、麓の梁父にて地祇を祀る封禅(ほうぜん)の儀を行い、泰華国初代皇帝・翰全即位。大陸北辺の帝星が胸疾により没したのがその十九年後、庚安三十四年、諡号して翰大帝という。半年の服喪のうち、太子丙が清明の佳日をもって丙全帝、即位。

元を慶安と改め、後世の史家をして三代皇帝・鄭全の元号、明寛と並び称し「慶明の治」と呼ばれる賢政であった。

―――慶安十一年、靖州北原に乱有り。

大河嬰水の西北、泰華十二州が一、靖州の一隅に住まう票族が泰華皇帝と兄弟の契りを交わし、天可汗の称号を捧げたのは、今をさかのぼること四半世紀、翰大帝の御世、暦にして庚安二十一年のことである。

翰大帝は晩年にいたるにつれ、道士方士をその身辺に侍らせて寵を給い、不老長生を求め煉丹術に傾倒することはなはだしく、国庫を蕩尽するかのように祭礼を行い遂には宗廟をあらため、宮中に巨大な天壇を設けた。その際に諫言する廷臣のことごとくを罪に座しあるいは遠ざけた。

建国間もなく、その支配が磐石といいがたい泰華がのちも帝国たりえたのはひとえに翰大帝の死期が早かったことに他ならない。

ゆえに即位まもない丙全は数年を朝の綱紀をあらため、隠遁し野に下った忠臣をふたたび政務へ呼び戻すことに費やした。乱れた律法を新たに見なおし、反する者があれば父帝以来の腹心であろうと容赦なく断した。

乱が起こったのは、その即位十一年目のことであった。

票族が、近隣の草賊らと共謀し蜂起。靖州州都・康琉をおよそ五日で陥落せしめ占拠。州師と剣戟を交わすこと三度、いずれも剽悍で知られる草原の民に敗北の憂き目を見るにあたり、州政を預かる州宰にして靖州令・張康の実弟、張元徳みずからが使いとなり帝都・蕃胡へと馳せ参じたのである。

男がはるかに望む地平の端に僅かな騎影、翻るは白旗、記されるは西宮七宿に金の文字。踊る白虎。泰華に住まう誰もがその旌旗の意味をわかっている。

泰華皇帝直属、四軍のうちが一つ、疾風迅雷の二つ名を持つ白旗西軍。泰華第二代皇帝、丙全が勅旨により上杉家の後嗣、景虎をして乱を平定し安寧を示すべく、招安使に任命したのが僅か数日前のことである。

雨が降っていた。







ほそぼそと痩せた木々の後ろ、築かれた隔壁は戦乱か何かか、殆どが崩れ落ち、ところどころ炎に炙られたように煤けている。辛うじて壁だったとわかる南面についでのように木造の楼門が張り付いていたが、半ば朽ち果てて傾いている。そればかりが真新しく白い門神の呪符が貼られ、斜め上には落ちかけた木札が引っかかっていたが、墨は剥がれて読むことは出来なかった。

風にさらされても飛ばないよう、土と漆喰で塗り固めた分厚い家々はともすれば岩場をくりぬいたようにも見える。似たような白茶けた家屋が三十ほど、だが大半が朽ち寂れ無人であることは明らかだった。煮炊きの煙がほそぼそと片手で数えられるほど、たよりなく晴れた空に立ちのぼっていた。

ときおり子供の甲高い声が響くのだが、すぐにその声も途絶え村はわざとらしい沈黙を取り戻す。動くものは無く、奇妙に人の気配も遠い。里は寂然と静まりかえり、白い陽光はしらしらと路地を照らしだしていた。

道のはずれの、小さな広場のようなところに石を積み上げた塚が無数にある。

はたり、と白布がひるがえった。

「…………なんだ。この村は」

うめくように呟いた、声に誰も答えない。

ただ白い布がゆるい風を受け、はたりはたりと揺れる。見れば集落の家という家、すべての軒下に白布がさがっていた。崩れかけ砂礫となった家も例外ではなく、主を失った家でもわずかに砂埃を交えて白い布が軽らかにひるがえる。

白は五行で言えば金気、西を示す。が、白は古来より忌事の色、喪に服しては白衣を着、白布を軒に下げる。皇帝の崩御に際しては一年の国喪に服し、夏至あるいは冬至を持って忌明け、そのときもまた村落の祠廟に白い布帛が下げられる習いとなっている。

白は喪の色だ。

がつり、と額に当たったそれが何かと認めるまで、時間が必要だった。熱と痛みを持つ額を押さえ、足元に転がった石を見る。高耶がゆるりと視線をめぐらせた先に、痩せこけて眼ばかり大きな子供がいた。

あああ、と悲鳴にも似たしわがれた声が聞こえた。恐怖と何か別種の昂奮に子供の眦は切れんばかりに見開かれていた。ぼんやりと子供を見やった高耶は絵草子に似たような餓鬼の姿を見たことがあると思った。子供の空洞を思わせる口から息とともに吐き出されたそれは、まごうことなく呪詛めいた怨嗟の声だった。

筋張った子供の手が振り上げられ、礫が飛ぶ。

孩児(こぞう)!」

侍従が抜剣すると同時に建物の中から影が飛び出し、礫を投げようとした子供を横から引き攫った。女だ。同じく痩せ細り、日焼けした手が荒れて血が滲んでいるのがわかった。もがく子供を押さえつけ、額を乾ききった土に擦りつける。叫ぶように言う声は言葉の違いにより意を汲むことは出来なかったが、慈悲を求めるものであることは明瞭としていた。

「女はなんといっている」
「『物狂いの子供ゆえ、ご寛恕を』と」
「子供は」

問い掛けた高耶に、しばし通訳は言いよどむ。構わない、と促がせば諦めたように唇を湿らせ、男は口を開いた。

「『人殺し。母を返せ』」

兵卒にざわりと憤激を滲ませた動揺が走る。礫を投げた子供はギリギリと瞬きもせずに睨みつけている。また激しく子供が叫びを迸らせた。押さえつける女を突き飛ばしそうな勢いで怒りの声を上げる。

「貴様!」

かっと頭に血を上らせた侍従の怒鳴り声に女が悲鳴をあげた。両手をあげて子供を庇うようにうずくまる。

「やめろ!」

高耶は舌打ちした。抜剣した兵卒までの距離がおよそ数間、――――間に合うか。

ばらばら、と大粒の雨が地面を叩くような、だが乾いた音が響いた。降り注ぐ石礫を軍卒の誰もが唖然と見つめた。

いつのまに、と高耶は思う。あれだけ人の気配が希薄だった鄙びた集落の半ば、やせ衰えた女が子供が、老人が狂奔する叫びを押し出す子供を庇うように集い、拳を振り上げていた。その数およそ百五十。対するこちらはわずかに十名を数えるばかりだ。

バラバラと降り注ぐ礫は明確な意図をもって兵卒を打ち据える。

「上将、今は退くべき時です」

石礫に打たれた兵卒が叫ぶ声をどこか遠く聞いた。剣を抜き払うこともせず、まろぶように逃げる。

(なんだ、この村は)

愕然とする高耶の耳に悲鳴のような若い兵卒の声が届いた。縋りつくような掠れた声だった。

「上将」
「なんだ」
「我らは、乱を平定するために来たのではないのですか」
「無論だ」
「逆賊の暴虐から叢生(たみくさ)を解き放ち、安寧をもたらすために来たのではないのですか」
「無論だ」
「では、では何故」

言い募る若い兵卒の声を高耶は黙殺する。「野営地まで戻る。馬を」

「なぜ我らが怨嗟の声を以って出迎えられなければならないのですか!」

こみ上げる苦みの正体すら測りかねるのに、答えることなど、ましてや振り返ることなどできるはずはない。

掲げる大義は乱を鎮めると言う皇帝の印璽の捺印された勅書。だがその重みがどれほどのことと言うのか。

靖州騒乱、票族の暴挙に百姓苦吟すること甚し。

張元徳という男が百官の集う朝議の場で、丙全帝を前に切々と語りだした靖州の民の苦境。塗炭(とたん)の苦しみを舐め、いつ暴徒が現れるか恐々とし夜も眠れぬほどだと。地は焼き払われ焦土と化し、塩をまかれ、田圃に新たな芽が芽吹くことはなく、度重なる掠奪に都邑は灰燼(かいじん)と帰して人々は飢渇し疲弊しきっていると。

ならば何故。

(痛い)

額の傷が痛む。小さな子供の手から擲たれた礫の疵がひどく痛い。ぶつけられた憎悪が痛かった。

『だからあなたにはわからない』

耳に甦る声が痛い。 喪に服した村で拳ほどの石を重ね土を盛り、積み上げられた無数の塚。アレは墓だ。震えながら石を投げた子供が欲していたのは、泰華の勅書を掲げた軍勢ではないのだ。

(――――直江)









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