流影【五】
すぐさま南天街にある上杉の
邸第に帰った高耶は、使いのものを走らせて参内の先触れをした。別に王族に謁見するわけでもなく、名家の上杉の後嗣とあって、すんなりと参内の許しは返ってきた。
着替えるのもそこそこ、太夏節そのままの格好で邸第を出ると、車を走らせるのすらもどかしいので、騎馬のままで朱雀大路を登る。
佩刀を番兵に渡すのにも耐え切れず、内城の正門、日華門をくぐりぬける。会う人ごとに探し人の名を尋ねて、祠廟だとか園林だとか、離宮と次々に足を運びながら、ちっとも顔をあわせることができないまま時は過ぎて、手の中の佩玉だけがぬくもりを増していく。
「橘三爺ですか?でしたらとっくに春明門のほうへいかれたと思いますが」
「春明門?」
「ええ、靖州のほうへ帰られるとか」
「失礼します!」
あっけにとられる文官を後目に駆け出す。
あの草原の日々。
幼いながら自分は佩玉を渡す、その意味を知っていたのだろうか。
(愚問だ)
知っていなかったら、今ここで自分が走っているはずがない。
朝市で賑わう胡中街のとおりを一気に馬で駆け抜けて、あっけにとられる他人の顔をどこか小気味いいと思いながら、高耶は馬の腹を蹴る。後ろに流れていく風と、道と、他人の顔と。
三層の城壁、内門、月門と呼ばれる湾曲した鉄の門扉、そしてその更に外、外門の彼方に広がる黄土の大地に白く道が地平までつながっている。
おそらくはあの天涯の国まで。
遠ざかる不夜宮の門を直江は振り返る。嬰水のほとり、堅牢な城壁で幾重にも囲まれた花の都は、故国にはないざわめきと人々で満ち溢れていた。青空の下、茫々と広がる黄土をゆったりと貫く嬰水。築かれた城壁が水面に映りこんで揺らめいている。
何より一番会いたい人に会うことが出来た。
彼が自分を覚えていないにしろ、成長した彼を見られたことが嬉しかった。
十年も前のことを後生大事に覚えていた自分を少し笑う。だが大事に胸に抱えていたのだ。
演舞場で対峙する、その姿を見ただけで間違いなく彼だとわかった。
記憶の中で
すら色褪せることのなかった漆黒の目。
「どうした、直江」
「いや」
「張康のことなら気にするな」
「いやなことを思い出させるな、鮎川」
「だって、お前が天河汗に碧明剣を下賜されたときのあいつの顔といったら」
くつくつと呑気に笑う友人に直江はため息をつきたくなってくる。泰華のものは十中八九が剽族を戎夷と蔑む。剽族がすまう靖州の支配者である、張康もまた例外ではなかった。ことあるごとに、権を振りかざして無体なことをするのには辟易する。
望天楼でやり込めてしまったのはさすがにまずいか、と逃げるようにして故国に帰ることを決めてしまったのだが、彼に何も思い出してもらえないというのは何か寂しい。
約束どおり、預かりものを自分の手で返しはしたのだが。
ふと眠りに落ちる前の彼の顔を思い出した。
袖口を掴んだ小さな力、委ねきって眠るその顔は幼い頃と何一つ変わらなかった。できるならもっと言葉を交わしたかった。
佩玉を贈ることは恋慕の証だという。幼い頃のこととはいえ、彼はわかっていたのだろうか。泰華のしきたりを知らない自分は、ただ、血で誓うことしかできなかったが、果実で返せばよかったのだろうか。
「直江!」
ありえるはずのない声に、直江は勢い良く振り返る。
昨日、太夏節の演舞場で対峙した時そのまま、白一色のいでたちでかけてくる騎影が見えた。そんなはずはないと打ち消しながら、すでに自分は馬を走らせている。戸惑う鮎川が呼びかける声がしたが、振り返る気など起きるはずもなかった。
高耶が自分を呼んでいる。
「直江!お前、何でなんにも言わねえんだよ!」
怒鳴り声に笑いが込み上がる。そちらこそ忘れていたくせに、と胸中でだけ呟いて追いかけて来てくれたことが嬉しくてたまらない。
「ようやく、俺の名前を呼んでくれましたね」
「オレに黙って帰るんじゃねえ!」
かみ合ってない会話で近寄った二騎、身軽に馬から飛び降りた高耶の手が何かを投げる。胸元に飛んできたそれをまだ騎乗していた直江は危なげなく受け取った。手元に目を落として、直江が笑う。
嬉しそうな笑い方に高耶の胸が一瞬どきりと跳ねた。照れ隠しに睨みつけ、せいぜい偉そうに宣言する。
「返しに来たんじゃねえぞ」
「返しに来たということではないなら、期待してもいいのでしょうか」
「き、期待って何だよ」
「さあ、わかっているとは思いますが、口に出していったほうがいいですか?」
「いや、いい」
「なんですか、それは」
馬から下りて、企むように顔を覗き込んでくる直江の顔に、なんだか寒気がした高耶である。首を振ると案の定、直江はどこかあきれたような不満げな顔をした。だが、少し考え込んだ後、ごそごそと旅支度の荷の中にまとめた袋から何かを取り出す。
「では、佩玉の代わりにこれを」
「へ?」
「泰華ではこうするのでしょう?」
向かい合う相手から手渡されたのは橙色の小さな枇杷。甘く熟れたそれは皮も柔らかく確かに美味しそうだが、意味がわからない。
きょとんとして見あげる高耶に直江は笑う。笑ったまま高耶の体を捉え、そのまま抱き寄せた。
「え?」
「俺なりの答なんですが」
間近に覗き込む男の双眸に心臓がうるさいくらいに騒ぎ出す。バクバク言うのに慌てて身を捩って、そうして果物の意味に気がついた。
絶えず肌身離さず、帯に下げた佩玉を異性に送ることは婚姻の意思を伝えることだ。相手が是と答える場合は、果実を返し、将来を誓い合う。
顔面に朱が昇る。
「は、放せっ!これはお前にやったんじゃない、預けたんだ!」
「忘れた本人がそれを言いますか」
「う」
腕の中で赤くなったまま押し黙る高耶を直江は優しく見下ろし、そして腕を放した。唐突に放り出されて高耶が見あげると、笑い、手の中の佩玉を握りしめる。
「またお会いする日までこれは預かっておきます」
でも、と直江は高耶を見た。
「今度は貴方が会いにきてください。十年も待てるだけの辛抱はないですけど」
黄土の大地も嬰水の女神も悪くはないですが、と直江は笑う。
剽族は遊牧の民。地に住まいを定めることなく、風とともに草を追い草原に馬を駆る流浪の民だ。
「蒼穹は
紫黛かすむ草海をおおい、草薫る
風美し国です。天に最も近き国だ」
雲路の行き果てる先、仰ぐ高天の涯て、見晴るかす草海原、そのすべてが故郷。
「私はあなたを忘れなかった」
黒い布で覆われた手首の戒めを直江は解く。高耶は見まいと目をそむけるが、直江は許さなかった。
「これが、証です」
耳元に落とされた言葉に、高耶はきつく目を閉じる。我が物顔で抱き寄せる男の腕から今度は逃げようとは思わなかった。十年前、他ならぬ高耶の手で切り裂かれ今僅かに赤いひきつれを残すその手を、なぞる。いとおしむ様に。
「来るのが遅ぇんだよ、お前は」
「忘れていたくせに」
それもお前が遅いからだ、と答える高耶の眼差しを直江の手が覆う。ふさがれた視界の中、高耶はゆっくりと瞼を下ろす。
重なった唇は思いのほか甘かった。
《慶安十一年、靖州北原ニ乱アリ。
首魁・直江、橘丹汗ノ子ナリ。票人ヲ率イ妖術ヲシテ能ク人心ヲ惑ワシム。州都・康琉ヲ陥落セシメ、州師ヲ破ルコト三度、靖州令・張康ヲ斬シ号シテ曰ク、『是ハ乱ニ非ズ、私憤ニ非ズ、義ニシテ
正道ヲ天下ニ示ス
誅殺ナリ。』ト。上、之ヲ憂イテ白旗将軍・上杉景虎ヲ
招安使ニ命ジ、討伐セシメント下勅ス。》
『泰華史
丙書』
―――剽族、滅亡。
その僅かに一年前の夏であった。
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