流影【四】










「いい加減にせい言うちょるんじゃ!この狒々ジジイ!」

ばんっと勢い良く房間の隅、隣に面した長窓(とびら)があいたかと思えば、飛び込んできた影があった。飛び込んだ、というよりも転がり込んだ、と言った方が正しい。黒檀に山水をあしらった衝立が音を立てて倒れた陰に人影がある。紫に金糸銀糸で鳳凰をあしらった悪趣味で豪奢な長袍に、御世辞にも量が多いといえない髪を無理やりまとめて鬢にしたような、でっぷりとした小男だった。 酒か何か引っ掛けられたのか、呆然とした男がぽかんと開いた口元の髯からぽたぽたと雫が落ちている。酒が随分と回っているらしく、額の上まで赤らんだ顔は確かに太った狒々に見えないこともなかった。

「きさん、人が客じゃ思うて大人しゅうしちょったらベタベタベタベタ!ええ加減にしろっちゅうんじゃ!」

女の激しい罵声と同時に開いた扉の隙間から飛来したものが小男の頬をかすめる。たんっと小気味のよい音をして壁に突き立ったのは、銀細工に縞瑪瑙の海棠が美しい簪だった。千秋がすげえ女、と感嘆のため息を洩らす。長窓傍にへたり込んだ小男の顔からさあっと血の気が引いた。

「如何にお偉い州令かは知らんがのう、金に明かせて芸妓に無体を強いるが道理ゆうがか!たかが女の矜持じゃろうが、買えるもんなら買うてみい!こんくそほっこがぁ!」

侠漢(やくざ)顔負けの烈火の如き啖呵をきったのは、朱絹の裳裾をバサリと翻し、雲のように結った鬢の美しい娼妓だった。蛾眉を怒らせてもなお、色濃い睫毛に縁取られた瞳には色香が漂っている。巫山の神女、月宮の嫦娥もかくや、といわんばかりの美女だった。 あっけにとられていた小男は現れた女をへたり込んだまま見あげると、次の瞬間、憤怒に顔を赤く染めあげて喘ぐように怒鳴った。

「わ、ワシが誰だかわかっとるのか!」
「狒々ジジイじゃっちゅうことで充分じゃ。……お帰りならあちらでしてよ」

うって変わって、花をもあざむく艶やかさで紅唇をほころばせた女は、まさに百花の先駆け、花魁(かかい)の名に相応しい。訛の残る言葉を慇懃な言葉にかえ、すいと酔客のざわめきが響いてくる望天楼の階下を指し示す。 女の背後には、高耶と千秋が注文した酒肴を運んできた給仕が、騒ぎにおろおろと戸惑っているのが見えた。

「銀子で色を売り芸を売る娼妓と申せど矜持があると、弁えられぬ野人田夫(いなかもの)をもてなす酒肴は生憎とございませんの」
「な……!」
「寧波を贔屓にしてくださる客は何も貴方様とは限らぬと申しておりますの。愚かと仰る娼妓にも客を選ぶ権があるは、花洛の掟でございます。守れぬのでしたら今すぐ御引取りを」

望天楼といえば、蕃胡でも一、二を争うと名高い酒楼である。天を望む、と扁額に思い切りよく銘打たれるのも当然、呼ばれる娼妓も並の妓女では有り得ない。 幼い頃から歌舞音曲を仕込まれ、女でありながら男並の学問教養を身につけているのである。科挙をくぐりぬけた高官や文人墨客を相手に即興で詩や詞をつくる才もある。となれば、矜持も高く並みの男であれば素気無くあしらわれるのも当たり前、贔屓客も豪商や高官、といったものが多い。 私も、と寧波は目を細めると、通りすがりの客らしき男の袖を柔らかに捕らえた。高耶と千秋もぽかんと口を開けた。

「このような見目良いお方でしたら一も二もなく夢中でございますけどねえ」

嫣然と笑うと、ちらりと捕まえた男の顔を見る。

「おや、まことええ男じゃ」
と、男は察したのか寧波の肩にさり気なく手を回し、庇うような仕草をする。

「いずれ御取り込みとは知らぬことですが、やんごとなき方が女の戯言に目くじらを立て、脅しつけるのもあまり得策とは言えないでしょう。微行(おしのび)といえど騒ぎになって、このような如何わしい界隈に居られるのが、禁裏に知れるのは、互いに喜ばしいことではありますまい。まして、靖州令を拝命している方ならなおさら。張太爺(ちょうさま)

響きのいい男の声にさらりと紛れた、脅しに素性を当てられた小男から再び血の気がひく。高耶たちが預かり知らぬことではあったが、男の名は張康、現・靖州令である。

「花洛の仙境に俗界を持ち込むのはお互いいやなものです。この娼妓が銀子を払い戻せば互いに忘れると言うのは如何です」

否や、と言えるはずもなかった。のろのろと頷いた男はぎりぎりと唇を噛みしめて娼妓を睨みつけていたが、給仕に助け起こされて房間を出て行った。見送った四人は騒動の終幕に誰ともなく、ほっと安堵の息を吐いた。

「妙な騒ぎに巻き込んでしもうて、すまんね」
「いえ、こちらも好きで友誼を結びたい御仁ではありませんから」
「そりゃあ奇遇じゃのう」

淡々と返した男に寧波は、に、と朱唇に随分と男前な笑みを浮かべた。そして、房間のなかでぽかんとしている千秋と高耶に微笑みかける。

「あんたらにも悪いことしちまったね。礼といっては何じゃが酌くらいさせておくれ」

酒席の小部屋を連ねた廊下に寧波が酒肴を注文すべく出て行ってしまう。男三人で房間に取り残され、何ともいえない空気になったのを打開するように切り出したのは男のほうだった。

「はじめまして、といったほうが良いでしょうか」
「いや、昼間に世話んなったから」
「奇遇といやあ奇遇だな」

ぼそぼそ、と返した高耶に続き千秋も返す。座ったらどうだ、と高耶が言うと男はありがとうございます、と柔らかく笑んで、卓子傍、高耶が腰掛けた窓に一番近い椅子に腰掛けた。

「票族五氏が一、橘が三子で姓を橘、名を義明、(あざな)を直江と申します、以後お見知りおきを」
「姓を上杉、名を景虎、字を高耶という」
「姓を安田、名を長秀、字は千秋だ」

互いに名乗り上げると、千秋が直江に酒盃をぞんざいに手渡した。戻ってきた寧波が千秋の注ごうとした酒の瓶子を取り上げたのを皮切りに、卓子に所狭しと山海の珍味が並んで奇妙な面々の酒宴が始まった。 ふと視線を感じて顔を上げると、直江と目が合う。そのたびににこりと笑まれるので、ひどく居心地が悪い気がした。注がれる酒を飲み干す。 杯を重ねるうちに、イイ気分に酔っ払ってきた寧波と千秋が意気投合して騒ぎ出す。その横で酔いそびれた直江と高耶はおのおの好きなように酒を舐めていた。直江は千秋や寧波に注がれるたびに杯を傾けているが、酔色は見当たらない。高耶はといえば、すでに顔を赤くして熱をもった頬を撫でている。

「何だぁ、景虎、もう酔ったのかよー」
「まだまだ夜はこれからやぞ」
「そうだよなー!姐さんわかってる!」
「しっかし、お前もええ飲みっぷりしちょるやないか!」
「いやいや、ささ、姐さん、もう一献」
「大丈夫ですか?」
「ん」

傍らから心配そうに覗き込んできた直江にひらりと手を振ると、高耶は杯を卓子から取り上げようとする。だが直江の手が酒盃を取り上げ、かわりに花茶を入れた茶碗を差し出された。その仕草にどきりと心臓が跳ねる。ふわりと漂う茉莉花の香りが優しい。

「宿酔(ふつかよい)はしたくないでしょう」
「悪ィ」

くらりと上体が傾くのを直江の手が支える。

―――あれ?なんだか覚えのある感触だ―――

袖口を掴むと、直江が笑う気配がした。

「ひとの袖を掴む癖は変わらないんですね」
―――なに、言って……―――
「まさか忘れられるとは思いませんでしたけどね、高耶さん」

佩玉を受け取って舞い上がったのは、俺の勘違いだったんでしょうね。

茶碗を受け取ったところで、かたりと高耶の記憶は途絶えた。抱きとめる腕だけがひどく懐かしく、髪を撫でられた。優しい手をしていた。

その日は小さな頃の夢を見た。北条の家で三郎と名乗っていた頃、義父に引き取られる前の、夢を見た。

目覚めれば望天楼の閨房で、千秋は長搨で眠っていた。給仕が朝粥の膳をそろえてくれるのに、他の二人はどうしたか、と聞けば、寧波は自分の妓楼へと帰り、直江もまた禁裏からあてがわれた自分の宿坊へと帰ったという。粥を口に運ぶ千秋の横で、高耶がため息をつく。

「……返しそびれた」
「なにをよ」
「佩玉」
「なに言ってんだ、お前。それ、お前のだろう」
「え?」
「虎眼紋がめずらしいからって、氏康公がお前の八卦を彫らせたやつだろ。靖州で氏康公が亡くなってからは、ちっとも着けなくなったから、俺は随分長い服喪だな、って思ってたんだけど」
「―――あ」

『なくすんじゃねぇぞ。他の奴から返されても、受けとらねえぞ』
『ええ、忘れません』

四方は波打つ草海、風疾し天涯のほとり、その最果ての国。
幼い日々の幾日かを過ごした美しい国。
幼い高耶に抜き身の刃を差し出し、惜しげもなく佩玉に血を零して見せた少年の名は、確か亜麻色の髪と琥珀の眸ではなかったか。

「ああ!」
「なんだよ」
「わるい、オレ、用事。勘定、これで」

いきなり立ち上がったかと思うと、奇声を上げてあたふたと帰り支度をして銀錠を投げる。手の平に大事に受け取った千秋はぽかんと背中を見送った。

「春かねぇ」







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