ペットボトルから唇をはずし、斜め上を見て首を傾げた。発言の意味が理解できなかった。跡部はもう一度言った。

「だから脱げ」
「や、その接続詞はまちがっとるやろ。『だから』て。『だから』てなに」

パイプ椅子に腰をかけて淡々と返した忍足に左手にもっていた本を閉じた跡部は形のいい眉を器用に片方だけ上げ、色の淡い眼をすがめてみせた。瞬きが少ない跡部の目はイヌワシだかライオンだかの目にすこし似ていると思う。

「俺は一を言って十を知れねえバカは嫌いだ。人間は考える葦だ。考えない奴は人間である権利を放棄してるとしか思えねえ。二足歩行のただの猿だな。てめえは猿か」
「や、いちおうホモサピエンスの端くれのつもりですけど」
「だから脱げ」

パステルだかラスカルだかパスカルだかの名言を折り込んで淡々と言葉を重ねた跡部の力技に反論したものの、やはり話は振り出しに戻った。ため息をついた忍足は早々に白旗をあげることにして、Tシャツの裾に手をかける。だが疑問はしっかり口にだす。

「なんでいきなり脱がなあかんのん。だいたいさっき話しとったのってサーキットトレーニングだか筋トレの話やろ」
「アホかてめえは。筋トレっつうのはな、筋肉を意識してやらねえと効果半減になんだよ。人体標本にしちゃ貧弱だが、てめえの筋肉を見せろって言ってるんだ」
「そこまで言うか」

有酸素運動をはさんでの無酸素運動、良質なタンパクの摂取と水分のこまめな摂取が必要だって書いてあるだろうが、と述べた彼はもてあまし気味に組んでいた長い足をほどくと目の前に立った。部室の机に放りだされた本はたしか体育の授業で配られたトレーニングブックなるものだった。バレーボールやバスケットボール、中学生が習う種目の、図解が比較的丁寧に載っている。テニスのサーブのフォームやルールも当然載っていた。

見下ろしてきた跡部は上半身裸になった忍足の上体を視線で撫でる。

「しかしひょろくせえな。あばら出てんじゃねえか」
「筋肉は痛いからつままんといて。……平均よりはウェイトついとるつもりなんやけどな。この年で筋肉つきすぎたらヘルニアとかなることもあるらしいで。オーバーワークはやっぱ故障の元やねんな」
「そうなのか」
「ごっつう痛いんやて。身長も伸びんようなるしって、こないだNHKで言うとった。体操選手って大概小柄やろ」
「めんどくせえな」
「高校ならまだしも、中学のうちは成長期やから、ひたすら基礎体力とフォームつけるしかないんと違う?中一は球拾いの間中、スクワットと走りこみさせとるからまあそこはなんとかなるやろ。サーブもちゃんとやらしとるし。……あー、しかし景吾くん」

どうにか気をそらすため油を差したように普段の三倍回しで回転させた口だったがそろそろ誤魔化しきれなくなった忍足は跡部の手首を極力やんわりと掴んだ。

「なんだ」
「あんまそうペタペタ触らんといて」

親指と中指に感じる骨の隆起とかすかに脈打つ鼓動、自分のよりわずかに緩やかなリズムを刻んでいても手の中に心臓があるみたいな錯覚に、忍足はもう諦めたような心持で恋を自覚する。利き手をとられたことがいやなのだろう、わずらわしげに形のいい眉をしかめた跡部の眼差しが忍足の眼をまっすぐ射貫くのにもう一つ、心臓のリズムが上がった。

「なんで」
「俺、いま繁殖期やから」
「なんだ、たってんのか」

良家の子息にしてはいささか品性のかけた発言に忍足は嘆息する。たしかに愛と青春まっさかりで若さをもてあまし気味な年頃だが、そこまで理性がないわけではない。

「……いまのでしぼんだ」

心理的に。

「根性ねえな」
「デリケートってゆうて」
「しかし、本気だったんだな」
「無視かい……って、うん?」
「冗談かと思ってたんだが」
「ああ、俺がこないだおまえに告ったこと?」
「今も他人事みてえだしな」

うなずいた跡部に忍足は苦笑するしかない。自覚はしている。気持ちは告げたものの、どう動けばいいのか分からず普段どおりをするので許容量いっぱいだ。今だって切羽詰ってはいるのだ。

「だってアプローチしようにも十五の身空でガチホモになる決心ついとらんのやもん。やから付き合ってとか言わんかったやろ。跡部かて俺に掘られたないやろ」
「品のねえ話だな」

そもそも付き合えるつもりかよ、と返されてそれは言わんといて、と忍足は笑った。

「見も蓋もないけどなあ。行動にうつさんかったら白黒つかんことって、けっこう多いやろ。実行したら後戻しはきかん。だけど俺が跡部を好きいうのは、単なる勘違いに過ぎんて誰かに言われたらすぐ揺れそうなんやもん。そんな中途半端な気持ちで一生が決まんの、俺いややねん」
「中途半端でおまえは告るのか」
「いや、勘違いだろうが好きっちゅうのはやっぱ今でも変わらんよ。少なくとも人生30度ぐらいはもう変わっとると思うし。あん時はなんかその場の空気で口からつるりと出てしもてん」

言うつもりはなかったと告げる。本当だ。数年後には、誰一人知らないまま気の迷いかなで済ませる思い出になってしまうはずだったのだ。

けれど告白した日は制服のYシャツ一枚ではもう肌寒い夕間暮れに金木犀の香りがして三日月の白さも金星の明るさもきれいで、ポケットにいれた缶コーヒーのぬるい温度が指先をすこしあたためる、だんだんと翳る町も夜にふかまる空もどこもかしこもやわらかくて、幸せな空気だったのだ。つぶさに思い出すことができる。自分の瞳がまるでカメラになったみたいで、結局気の迷いではすまなさそうだ。

「だから気にせんで流してもええんよ」
「そういうのが一番うぜえな。勝手に思ってるだけだからって外面した奴だろう」
「確かになあ。気にせんでええ言うても、まともな奴なら気にするやろなあ。じゃあ気にしとって」
いちいち軽いなてめえは、と眉を顰めるのにやはり笑うしかなかった。気の迷いでやはりよかったのだと思ってしまう。思い出のアルバムの奥の秘密の一ページぐらいでほんとによかったのに、あの日の夕暮れの空がきれいなのがたぶんいけなかった。

「女の子はちゃんと好きやで?跡部かてハル・ベリーのおっぱい生で見れたら嬉しいやろ」
「俺がまるで同類みたいな言い方はひっかかるが、まあ、そりゃそうだな」
「やろ?」
「しかしてめえはくどくど理屈が先立ってうるせえな」
「やっておれ童貞やし。はじめては大事にしたいんですー」
「そうなのか?」
「うん。前の彼女は手ぇつないで、あとおっぱいまでやってん」
「カップは?」
「うわー、景吾くん最悪。女の子見るとすぐに顔と胸と足に行くのは男の子としてどうかとボク思うねんけど」
「いかねえのか?」
「や、行きますよ」

行きますけどねーと呟いて一つ瞬きをして、部室の天井を仰いだ。窓の外は天体観測にはおあつらえ向きな空が広がっている。閉門三十分前でも街灯の明かりが点る時間になってきた。もうすっかり秋だ。秋の心でたしか愁いだ。切ない。

「……このまま俺は女の子のおまたちゃんも生で見ないまま、跡部に純潔捧げてしまうんやろか」
「いらねえよ」

五文字で切って捨てられた。

「大体なんでおまえは順調に俺様とやれることになってんだよ」
「うわー、ひっど。ちなみに景吾くんはどうなん?」
「あん?」
「童貞?」

怒られるかと思ったが、跡部はすこし目を伏せてなにかを思い出すような顔をしてから忍足を見て至極あっさりと告げた。

「半だな」
「半?童貞に半もくそもあるんかい」

反論にうなずいた跡部は口を開いた。

「入れようとしたら半分ぐらいしか入んなかったんだよ。そんでそいつとは別れた。理由は違うがな」
「それはたたなかったっちゅうこと?」
「いや、単に準備がたりなかっただけだ」
「なんや半ってやけに生生しいなあ。……てことは途中ってこと?」
「だから半だっつってんだろ。好きな女がいてぇっつって青ざめてんの見たら、しょうがねえだろうが」

グランドから金属バットに硬球があたる、ホームラン間違いなしの音が高く聞こえた。走者一掃の満塁打に違いないなと勝手に思った。

「…………」
「んだよ」
「や」

ちょっと耳たぶが赤くなったような気がするが、まあ髪に隠れて見えないだろうからいいとしよう。

「俺はいま百恵ちゃんの気持ちがよおわかった気がするわ」
「んだそりゃ」

てめえはネタがいちいちマニアックなんだよ、と罵られるのを遠くに忍足は襟足の髪をかき回して、すこし切ないため息をついた。愛する人に捧げるためまもってきた、わけでは毛頭ないけれど、誰でも一度だけ経験しちゃう誘惑の甘い罠がもしかして今目の前にあるのではなかろうか。男の子の一番大切なものをあげてもいいなんてうっかり思ってしまった。確実にいらないと怒られるかもしれないが、想像する分にはタダだし、たぶん万が一いざことに及ぶとなったらケツの穴の小さいことは言わないだろうと思う。

(しかし、ケツの穴ってこうホモになると生生しいなあ)
「あとべ」
「なんだ」
「さっきから気になってたんやけど」
「なんだよ」
「乳首みえてんで」

忍足の指摘に、ああ、と眉をしかめた跡部は色の淡い瞳を自分のシャツの胸元におとし、すぐにひたりと見すえてきた。蛍光灯の青じみた光でも睫がすこし金色になっているのに心臓が落ち着かない。すこし顎をひいた忍足の目の前で唇がシンメトリーに持ち上がった。

「見せてんだよ」
「…………うっそ」

声が掠れた。キン、ともう一度バットが鳴る甲高い音。

「嘘。しかし油断も隙もねえな、てめえは」

ナイバッチー!と声が聞こえてくるが、すぐにバカだのアホだの罵声込みの悲鳴が混じった。ランナーが二塁ベースを踏み損ねて挟み撃ちになったらしい。ゲッツー。

「…………俺のときめきを返せや」

うかつにも瞳孔が開いたのではと思うぐらい本気でときめいてしまった。恨めしげに唸る忍足を跡部は鼻で笑い飛ばす。

「恋愛ものに障害は定石だろうが。まあ、せいぜい頑張れよ」

くつくつと笑って胸元のボタンを留めなおす跡部がなにがなんでも純情を捧げられるのはたぶんそう遠くないはずだ。道を踏み外す一歩を躊躇っていた忍足の背中をなにげない一言が押したのを本人は知る由もない。だっていま決心した。言葉どおりせいぜい頑張ってやる。引導をわたさないほうが悪い。

「跡部」

だって厭なら、殴られると思ったし罵られると思った。けれど振り向いた色のうすい虹彩は貝殻みたいな光沢の青と灰色でできていてすこし笑ったままだ。すぐに驚きに見開かれた表面にうつりこんだ自分の顔は歪んでいるだろうけれど、相当に真剣なはずだ。一生が決まる瞬間は案外呆気ないに違いないと忍足はおもう。しまっていこう、と野球部の声がする。

「なんだよ」

たとえばいま笑ってる跡部にだって三秒後に運命の一撃がきてもおかしくない。さっきのホームランみたいに恋なんていきなり落ちるものなのだ。

キン、ともう一度バットにボールが当たる高い音。鼓動のむこうから、走れ走れはしれ、と叫ぶ声が聞こえた。

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