適当にティッシュで腹と指を簡単に拭った忍足は背中をむけたままの女に財布は、と問い掛ける。答えないことにため息をついて立ち上がり、ソファの横になげだされたショルダーバックを引寄せてひっくり返す。手帳や化粧ポーチにまぎれてバックから落ちたハンカチに包まれていたちいさなビニール袋に目をとめると、もちあげて光にすかした。
やっぱりかと嘆息する。
「おまえ明日なんか用事あるか?」
出勤まえなら、と返ってくる声にそうか、とかえして元のとおりビニール袋をハンカチで包みなおし、とりあえずサイフから一部をのこして現金を抜き取る。立ち上がって流しの蛇口をひねった。水音がたち涼しい空気がわずかに顔を撫でる。口のなかをきれいに漱いで水を流しに吐き出す。
「そいたら三時頃迎えに行くから用意してまっとれや。飯いこう」
ひとつしかコンロのないせまい台所、ゴミ箱からはみでた丸めたあとのあるアルミテープ、酸化で黒くなったスプーン、薬局で買ったらしい味も素っ気もない白色ワセリンが食器もろくろく洗っていない流しの、やけにきれいに片付いたところにおいてある。月ごとのあがりの極端な減り具合、顔色のわるさや肌のがさつき、独特の口臭やかわいた口の様子に潮時だな、と忍足は判断を下していた。
シャワーを浴びて女の部屋をでると階段をおりながら携帯を取り出し、アドレス帳から番号を呼び出す。四コール目にでた相手にどうも、と挨拶をして切り出した。
「保険屋都合つくかァ?……うん、…うん、20やったかなァ、サバよんでも五はいかんとは思うけど。……うん、そう、一人。明日の夕方、連れてくから準備しといて欲しいねん。サイトーさんとこ、たしか新しい子何人か欲しいて先週いうてはったやろ?うん……うん、頼むわ」
シャブ漬けやけど、とは言わないのが約束。
上納金をいれにいった源氏塀に囲まれた屋敷、年月にあらわれなお厳しい門扉をくぐりぬける。藤花はすでに散らけて灼々たる躑躅の一叢に艶をゆずり、菖蒲の紫が池周りに羽をひろげている。緑りしたたる初夏の庭をよこめに歩いていたところで、目を瞬く。すぐに唇をもちあげると、飛び石を踏んで遠めにみても目だつ人影に近寄っていった。靴底にふまれた玉砂利がかすかに鳴る。
「とんとお見限り」
「アホか」
「いけずやなァ」
鼻で笑われるが別に突き放されてるわけではない。そこそこ気に入られている自信はあった。車をまっているらしく、ちょうど松葉の影がおちるところにたたずんでいた跡部は麻らしい淡いグレーのサマースーツに濃い目のシャツ、顔と空気が派手なせいで目だちはするが若い社長といっても通じそうな大人しめの格好に忍足は首をかしげて、ああ確か、と合点がいった。
跡部がいぶかしむように目を細め、口をひらこうとしたときによく磨き上げられた車が滑り込んでくる。
「…なんでてめえも乗ってくるんだ。用事はどうした」
「弁護士センセのとこやろ?俺のヤサもそっちやから。用事はアンタに会えたら終わり」
今月分、といって机におけば立つに違いない封筒を跡部に渡し、忍足はシートに背中を沈める。おりる気配がないのに嘆息した跡部は構うことなくだせ、と短く運転席に告げた。
仕事なあ、といったのは依頼人にしては妙な空気の二人連れの一人、猫背の男は眼鏡の奥、切れ長の眼をすがめて笑ったようだ。整った顔は黙ると怖く見えがちだが、日向の猫みたいな顔をして笑う男だった。ローテーブルに淹れたての珈琲カップを置こうとするのを受け取って並べてくれた。ちょいちょいとひとさし指でよびつけて耳を近づけると、小さい声で囁いてくる。
「ああいうんを色悪いうんやで」
「いろ?」
「んー、色ってのはなぁ」
「子供に品のないこと教えてるんじゃねえよ」
アホか、と色悪と評されたもう一人の客に応接用のローテーブルを蹴られて脛にぶつけた男はアイタ!と声をあげてソファの上に足を避難させた。抗議の声をあげたのはところ狭しとファイルを並べられた本棚から書類をとりだしている部屋の主だ。
「一応、人の客分に妙なことはしないで欲しいんだが」
俺の監督責任になる、とファイルの書類を確かめながらいうのに犬猫の粗相と同じ扱いで加害者が答えた。
「連れの躾がなってねえで悪ぃな手塚」
ミユキちゃんだったか、とうってかわって柔らかな声をだしたその人は手を伸ばすと笑う。
「ごめんな。どっかの気のきかねえ奴のせいでよ。いるって分かってたらなんかもっと可愛い土産も見繕ったんだが」
少女の両手をとって手首を見下ろすと、色の淡い目をもちあげて眇めた。今度はきれいなアクセサリーかなにか買ってくるよと続けた。
年のはなれた兄よりよほどはっきりとした扱いに耳のあたりが熱をもった。べつに、と思わず顔を伏せる少女になにをしていると手塚は眉をつりあげて、盆を片付けてくれるよう手渡した。避難所の流しにひっこんでいく少女の背中に可愛いじゃねえか、という男に手塚は丁重に念押しをする。
「跡部、お気遣いなく」
「だからてめえは堅いつってんだよ」
「依頼人から頼まれて預かっているんだ。めったなことができるか。おまえみたいなのを近づけると碌なことにならん」
いった手塚に形のいい眉を吊り上げた跡部は顎をしゃくる。
「言ってくれるじゃねえのよ。なら俺なんかよりこっちに気をつけやがれ」
「忍足だったか」
「どうも」
ソファに浅く腰をかけ、ひらいた膝に両肘をひっかけて手を組んだまま頭をさげた黒髪の男は仕立てのいいスーツに着られるでもなく、靴も時計もブランドこそ統一されてはいなかったし派手ではなかったが値のはった格好をしているとすぐに見て取れる。それでもサラリーマンには到底見えず、ひらりと笑ってみせる眼鏡の奥、一見すずしげな切れ長の目じりと唇の端に漂う空気があからさまに堅気の人間ではなかった。
本職のコマシだ、と跡部に言われて目を瞬いた手塚はすこし考えてから、スケコマシという単語にたどりついて、ああ、と頷いた。
「その道のプロだからな。遠慮会釈もねえよ、ツルにされたくなきゃ気をつけな」
「人聞きの悪いこというなや。人材派遣業やって、人材派遣。かわいい女の子に仕事紹介したってちょこっとマージンもらっとるだけやて。それも全部ご好意のうちやし」
「な?」
「……五十歩百歩だ」
そういわれちゃ立場はないな、と跡部は笑った。
坂の多い街中、大通りから一本はずれた小さな弁護士事務所から一歩でて裏手の階段をおりようとしたところで、男女の二人連れと行きあった。僅かに脇に避けすれ違ったときにわずかに樟脳のにおいがして跡部がわずかに目を動かすと、忍足の低い声がおちた。
「ありゃ、ろくでもない男やなァ」
女の化粧と白髪まじりながらこぎれいにまとめられた髪、お仕着せとも見えないスーツの着方。対して年若い男のほうは襟のくたびれたスウェットに上着をひっかけたような格好で靴はサンダルをつっかけて、女の格好とのちぐはぐさが目をひいた。女は小さく頭をさげて、先ほど出てきたばかりのドアを開けている。息子かな、と忍足は続けて鉄製の階段をおりる。鉄製の階段がものさびしく鳴った。
「男にしゃぶられる女はなァ、ちょっと話しただけでよう分かるねん。最近は素人にも玄人くさいのが増えたけど、そういうのに素人も玄人もないんやなァ。不思議と夜の仕事ばっかしとるようなのに乳母日傘のお姫ィさんみたいに純やったり初心いのがおったりするもんや」
悋気で青ざめた顔をして出て行く男を罵りながら、甘い声で恨み言を聞かされれば涙ぐんでドアを開け、知ってて騙され持っていかれる。女がもっとも厭うのは女をつくられることではなく、自分が他の女よりないがしろにされることだと学ぶのに時間はかからなかった。独占したがるのは取り分が減るからに過ぎない。比べられることを厭がる人間はそうそういない。自分が勝つのに限れば。
後部座席に滑り込みドアを閉めれば滑らかに車は動きだした。口を動かす忍足を跡部が一瞥する。目が合ったところで手が伸ばしたが特に払いのけられはしない。
指先をくずされた髪がすべって、整髪剤のにおいがわずかにただよった。日の当たるところでは金色になり暗いところでふかい琥珀になる。染めてはいないのだから、色素が本当にうすいのだろう。
「喋っただけとか手ェ触っただけで空気がな、ぱあっと変わるんや。性っちゅうんか業とでも言うんか、本人でもどうにもならん酷いことされとうてされとうてどうしょもないオンナの匂いみたいなんがあるねん」
「持論か?」
「あんたもそういう人間、ようさん見とるやろ。―――味もよう知っとる顔や」
女と男どっち、と呟いて貝殻のような耳の後ろに唇を落として鼻をすりつける。どっちも、と重ねてたずねるというよりむしろ確かめる響きに流し見て、うすくひらいた唇をわずかにつり上げて笑みを刷いた。
「…コマシが自分の女以外に色気だすな。商売道具にケチがつくぞ」
「
情人は別や。寝たとこで金ヅルは金ヅルに過ぎん」
「本職の割りに口説きが下手すぎねえか」
「仕事以外はぶきっちょやねん、オレ」
は、となかば失笑にちかく笑えば思いのほか響いて、顔を背けた跡部はくつくつとますます喉を鳴らした。存外に快活な、少年じみた顔に絆されてすこし笑いながらも、忍足は眉尻を下げた。
「えらい笑うてくれるなァ」
妙に拗ねた響きに今度こそおかしかったのか、声まであげて笑う。意趣返しに耳朶を口にふくんで舌先ですこしだけたどると、ちいさく息を呑んだ。反応はいい。隠そうとして堪える仕草も妙に清潔でよかった。
なあ、と促せば趣味じゃないと返される。素っ気なさに反発してますます煽られるくらいには若いと知っていたし、逆上せているのだともしっていた。入れ揚げたいとも思っている。
「……素ッ堅気に惚れてもいいことなんてなんもないで」
声は重くなるほどに甘くなった。
首筋に吸いつくと、肘掛におかれた指先にわずかに力がはいって色を失うのが見えた。吐き出した息がやけに色めいている。あからさまではない程度にめかしこんではしゃいでいる横顔はいじらしくて、想像よりずっといい。唇で熱をさがせば、息をほどくのがわかった。
「知ったようなこといいやがる。手塚はそんなんじゃねえよ」
はっきりとした否定に忍足が目を瞬いていると、白い面が近づく。信号停止で高架の影にはいったのか、車内につかの間の暗がりがおちて目の前を赤や緑の幻光が泳ぐ。青灰の虹彩の奥、黒い瞳孔が闇がりにゆっくりと口を開けるかすかな動きに見入っていた。兄弟と寝る奴はそういねえだろう、と囁く。
「ありゃ俺の兄弟分だ。ガキの頃に、兄も弟も決めちゃいねえが略式でな、盃を」
「は」
盃を交わすのは一生の誓いだ。あの官僚然としたいかにもな堅気が、と文字通り目を丸くして絶句した忍足に、跡部はとっておきの宝物を物陰で見せびらかす子供めいた無邪気さを覘かせて告げ、忍足の唇に指を押し当てて声をひそめる。
「――――誰にもいうなよ」
ちりっと臍の下辺りで暗い眼の蛇が薄目をあけて鎌首をもたげた。ほかの男との密かごとを囁くには声は甘すぎて、わかってやっている手管なら無論のことたちが悪いし、わかっていないのなら尚のこと罪作りだ。
やたらとととのったこぎれいな顔もいけない。
こういう輩は最悪だ。肌で知っている。
腹立ちまぎれとわかって忍足はその形のいい、小指の爪を噛む。
→「040:小指の爪」
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