※暴力表現あります
お前らなにやってんだ、と降ってきた声に床に転がっていた忍足は目をあげる。
モルタルの床に赤茶色のよごれがこびりついているのは顔から出た血がかわきかけているのだろう。細かい血管が多いからすこし切れただけで大量に血が飛び出すのだ。
呼吸のたびに肺が動くだけできつい痛みが走り、身をよじることもままならない。
(肋骨イっとるかな)
左眼は完全に腫れていて視界はおぼつかないことこの上なかった。右目だけうごかすと取り囲んでいる人の波が割れる。よく磨きこまれた靴が映り、それから暗色でそばでみてようやく分かる程度のストライプのはいったあまり趣味の悪くない(大体にして筋者のセンスに忍足ははなはだ同意できない)スーツに包まれた足があった。現れた男はふ、と唇を吊り上げる。
「面白いことやってるな」
むせ返った拍子に鼻から口にでた血が喉に入り、咳き込む。目の前の男の靴に飛び散って、あ、まずい、と思うがしょうがない。タバコを取り出すと、集まったほとんどの連中が火を出そうとする。つれだろうやたらと大きな男のライターから火をもらった男はふーっと煙をほそく吐き、靴についた汚れを気にするでもなく動いた。
「……誰や、あんた」
「聞こえねえよ。なんていった?」
形のいい眉をよせた男が首をかしげる。ぐい、と後ろから別の手で前髪をもちあげられたかと思うと、ボタンが散々とんだシャツの襟で顔をぬぐわれる。このスーツはゴミ箱いきだろう。男前が残念なことで、とまったく残念そうではない顔で笑った。あんた、誰、と改めてたずねた忍足を黙殺して男はまた煙草を吸う。ちりっとタバコの先端がオレンジに溶け灰がゆっくりと床に落ちた。また随分とうまそうに吸うものだ。
「崎本が
女房、コマされて逃げられたって?」
「……俺は知らん」
んなわけあるか、と外野から聞こえた声を気にするわけでもなく、忍足の前髪をつかみあげた男が覗き込んでくる。白皙という以外なんといえばいいのか、根元まできれいな淡めの髪、眉や睫までこい琥珀色で色素がかなりうすい。掘りがふかく秀でた額も整った面相も現実感がないほどだ。まるで鎌首をもたげる蛇のような目だった。瞬きがすくなく、虹彩が青灰だ。コンタクトではない。
「知らんもんは知らん」
吐き捨てるようにいって咳き込めば、また床に血まじりの唾液が落ちた。そうか、といって顎をしゃくる。前髪をはなされた拍子に頭が床に落ちて忍足は呻く。
「そうか」
「あんたはしゃしゃり出ないで黙ってくださいよ」
転瞬、影がはしったかと思えばいった男の後ろ頭が床に叩きつけられて忍足の横をすべって壁にぶつかった。上体が崩折れて倒れ伏す前に踏みこんだ小さな影の膝が顔面にめりこみ、壁にぶつかって鈍い音が数度響く。壁際でいつまでも床に倒れることすらできない男を無言で殴り倒している小さい金髪の男をみて、ため息が落ちてくるのに忍足は目だけを動かした。あきれかえったような顔だった。
「……タイミングのよめねえ奴だな。樺地」
「ウス」
のそりとうごいた事務所の欄間にぶつかりそうな影が金髪の男の襟首を引っつかんで吊り上げた。ばたばたと足をあげた男はだって、あとべに、だのもがいていたがすぐに大人しくなった。しん、と静まりかえった事務所に足音がひびく。事務所の応接用のソファに腰をおろした男は、頬杖をつく。
前に出たのはたしか幹部の男だ。ぴしりと九十度頭を下げた。
「うちのがいたらないですみません」
「気にしちゃいねえよ。ジローにも云っておくから勘弁してくれ。若い奴に大人しくしてろってのもねえだろう。崎本に会いに来たんだが、いねえのか?」
「兄貴はちっと……。事前にご連絡いただいてれば、こちらも準備させていただいたんですが」
「いや、気にすんな」
「はい」
「今日中になんとかさせろ」
時計をちらりとみていいやるのに、絶句したようだった。
「今日までですか」
「日付変更までは待つ。始末がつけらんねえならそれまでだな」
できねえか?と唇の両端をつりあげる。「できるよな?」
ちょうどそのとき電話が鳴った。携帯電話の着信音に誰もが視線を走らせる。悠然とスーツのなかから携帯をとりだした男はフリップを開いて目を細めると短く応対した。ありがとよ、真田、と短く呟いた男は通話を打ち切る。
「あの女が警察に駆け込んだそうだ」
男のセリフにばっと慌てた幹部が首をめぐらせれば事務所のテレビの電源が入れられチャンネルが回される。途切れ途切れ流れだしたニュースの断片をみているうちに、幹部の膝がほとりと床に落ちた。
『――本日午後1時ごろ○○区の住宅街で発砲事件があり、男性一人が意識不明の重態、女性一人が軽傷を負いました。警視庁は広域指定暴力団崇正会系の暴力団に所属する崎本忠志容疑者に現在――』
ははっ、と忍足は思わず笑う。失笑だった。
「なあ」
「……」
「あんたや、崎本サンの処分はどないすんの?」
腰掛けた男は詰まらなさそうにテレビの電源をリモコンで切った。
「女に足掬われるなんざ無能の証拠だ。わざわざ金をかけて箱から出してやるのも惜しい」
ははッ、ともう一度忍足は笑うと、床に肘をついて起き上がる。ぐらつく奥歯に眉をしかめながら、左の鼻を押さえると息をはいて詰まっていた鼻血をきる。ネクタイでぬぐった。どうせもうゴミだ。ほどいてポケットに放り込んでから、うずくまった幹部の傍に歩み寄り、かためられた髪の毛をわしづかむ。
「オッサン、財布」
「…なに」
訝しげに云う相手に笑ってから、先ほど自分を袋にしていた連中を一瞥する。
「財布や財布。もっとるやろうが。そこの、おまえらもサイフだせや。濡れ衣でこっちの一張羅と商売道具駄目にされとんのやから」
側頭部に膝を入れると軋む音。
「それなりの、誠意、見せる、のが、スジ、やろうがッ、筋」
鳩尾に爪先をえぐりこんで、うずくまったところを勢いよく床に数回叩きつけて手をはなす。水音がまじるのにそう回数はかからない。胃液を吐いたのか酸えた臭いに眉をしかめるとひっくりかえした。
ポケットをさぐり、財布を取り出して札入れから紙幣を取り出す。クレジットカードを引っぱり出してひらりとデスクに座った男を見て笑う。
「これも?」
「勝手にしろ」
「おおきありがと」
男の許しに周りを見回せば、すぐに五つほど財布が忍足の足元に投げられた。さすが鶴の一声と感心して財布を拾いあつめてから、はずしておいた眼鏡を胸ポケットから取り出す。プラスチック製のレンズがフレームからはずれているのをはめなおして、かけた。
「あんたが跡部景吾?」
「新入りの癖してよく知ってるじゃねえか」
「おれお客さんやで。ここの事務所に入るのも今日が初めてや。ただ知り合いがここの若頭がえらい色男、いうてはったから」
「褒めるなよ。てめえにゃ負ける」
言うセリフのばからしいくらいの尊大さ、すこし伏目にわずかに白い歯を咲かせる。思いのほか少年じみた笑い方に気をひかれた。
「おまえ、一本か?」
「アンタがついてくれるんやったらヒモつきも考えんでもないで」
「下手な口説きだな」
「顔わやくそにされとるしね」
云えばたいした面かよと鼻で笑うのが小面憎くて気づけば机に手をつけて顔をのぞきこむ。声はばかばかしくも甘くなった。
「どんぐらい稼いできたらええの?」
「うちの杯うけたいのか?」
アンタなら、と忍足は至極まじめに答えた。
跡部はまた笑って、まずその汚い面洗ってきたらなとトイレを優雅に指差した。
→「019:ナンバリング」
文字書きさんに100のお題より
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