体育館の階段した、人気のあまりない水場にむかい、タオルをコンクリートにひっかけた。
きつく閉じた蛇口をまた握り上からおさえつけるように捻れば軋んだ音をたててゆるみ、縺れよじれて水が落ちた。配管の錆めいた味も冷たさにはかなわない。ダウンのランニングで少し汗のうく体にはしみるようだった。喉元から胸のなかほどまで体の中を水が落ちる温度がわかる。
渇きのままひとしきり水を飲んでから、スパイクを脱ぎ靴下をまるめてつっこみ、土で色のかわったユニフォームを膝までまくりあげる。サポーターを引き抜くまで、すべてなれきってしまったよどみのない手つきだった。蛇口をひねると、ほとばしる水流に膝をつっこんだ。
腫れぼったい熱に膿んだ膝の痛みがとおくなる。水呑場のコンクリートに手を着いて下腹がつぶれるほど息をはききって暮れはじめの空をあおいだ。
(日が長くなった)
灼灼と花をつけた躑躅も褪せて、花は盛りを青葉にゆずり雨がふるたび蒸れた土のにおいがたちのぼり夏の近しさをしらせた。風にかすかにただようあまやかな香りを探せば気のはやいクチナシが夕暮れの淡い暗がりに素白くうかんでいる。
「……いてぇ」
よぶ声に顔を蛇口を捻って水を止める。走りよってくるまだ名前も覚えていない下級生が監督が、というのに榛名は面倒くさいとため息をついた。
テンペスト
体育館裏手の階段をのぼって体育教官室に入る。舞台袖ちかくにある教官室のうすぐらい廊下からひょろりとほそい、見覚えのある人影があるいてくるのに榛名はよこに避けて頭をさげた。
「ちわす」
「ちわ。なに榛名、呼び出し?」
「そうっす」
「ふーん。……じゃあな、お疲れ」
「お疲れ様です」
越川と言う名の一学年上の先輩は、同じ投手だ。サイドスローで左右の振りが上手い投手で、四月の公式戦の後の練習試合からは榛名にマウンドを譲り、いまはほぼ控え投手にちかい扱いだ。なんの用事だったんだろうと首を傾げるが、呼ばれている以上教官室にいかなければいけない。ノックをしてドアをあけると、うすぐらい光りが廊下にこぼれだしタバコの煙でわずかに曇った空気が鼻をたたいて、軽く咳きこんだ。
「……っす」
「……榛名、おまえ、まだ着替えてないのか。だらしねえな」
「や、整備やってたんで」
「ケジメがなってないんだよ。きっちりしてないのは、野球だけじゃないぞ、スポーツマンとしての自覚たりないっていったろうが。裾も出すな、入れろ」
「すいません」
いちいちうるせえな、と思いながら口だけはしおらしく、おざなりにひきだしていたアンダーの裾をボトムにつっこんだ。いい加減、一年ちかくもつきあっていれば受け流し方もなれてくる。だいたい、この監督は気に入らないことがあると物陰で普通に殴ってきたりするので有名だった。素行の悪い、というか目をつけられやすい生徒が廊下に連れて行かれると物音がして、腹を抱えてかえってくるのを榛名もみたことがある。
学年主任で生徒指導を兼ねているにしたって、たいがいなっちゃいない、と榛名は思う。だいたい、禁煙のはずの教官室にあたりまえのように灰皿がおいてあるあたりがおかしい。
「まったく」
おまえは、とため息をつく監督の前にたった榛名は床を見ているだけだ。
「それで、お前、足、違和感あるんだってな」
「……ああ、まあ、そーすね」
「オレの知り合いで医者いるからそいつのとこ連れてってやる。おまえ塾とかあるか?」
「月曜なら、ないですけど」
「じゃあ月曜でいいな。終わったらここに来い」
「はい」
連れて行かれた診療所は、住宅地の真ん中にあるような外科だった。杖をついた年寄りが二人ほどベンチに座っているほかは客もない。
丸椅子に促されるまま座って、スラックスをまくりあげると医者があ、サポーター自分で持ってるんだね、といった。
「この形ので大丈夫だよ。この一年でだいぶ身長のびてるみたいだしね、成長痛って奴。レントゲンにもなにもおかしいとこ映ってないから安心していいよ。こいつも昔ひどかったし」
「そーなんすか」
「そうそう」
大丈夫大丈夫、と医者に言われれば頷く他はない。まああんまり痛いときはテーピングの仕方があるから、といって、二種類ほどのテーピングと湿布になるモーラステープを処方されて、その診察は終わりだった。写真がでてきてから五分も経っていない。
それからは後ろの顧問と医師は近況報告のようなものをひとしきり長話をした。その間榛名は曇り硝子の外の空が暮れていくのをみていた。
帰り道の車の中、信号待ちしたところで監督が、よかっただろ、というのに榛名は横を見た。
「医者に見てもらったほうがお前も安心だろ。でもまあ、これで心おきなくプレーできるだろ」
「そーすね」
「オレも成長痛はけっこうきつかったからな。夜中とか肘がみしみしいうんだよな」
「……へえ」
「そんときも基礎トレはやったし、筋トレもしてたぞ。サボってたら時間の無駄だからな。お前もびしっとしろ。市大会まであんまないからな。投手がだれてちゃチームがだめになる。そこ肝に命じておけよ」
「はい」
おー、いい返事だな、といった顧問に、榛名はすこし笑った。サポーターにくるまれた膝はすこし違和感があったが、成長痛というのはよく聞く言葉だ。実際、去年は八センチちかく伸びているし、もう下ろしたはずのスラックスの裾がたりなくもなってきている。
「ありがとうございました」
ずっと抱えていた違和感を説明してもらったことに、顧問の続くお説教くさいこともどうでもよくなった。
おっそいなあ、と声をかける秋丸に榛名はうるせえ、と返す。
「階段の上り下りが辛いとかいっておまえじーさんか」
「ちっげーよ、バカ」
体育館にあがるため、階段を上り下りするたび、膝に小さな痛みがまじる。のぼりきって、鉄製のドアをくぐると集会のためざわつく全校生徒が衣替えしたてでまぶしい夏服で群れている。中二は真ん中のあたりだ。
「全校集会なんて急いだって疲れるだけだろうが」
「やる気ねえなあ」
おまえら早く並べ、と背中をはたかれて顔をあげると、顧問の後姿が見えた。いって、と背中をさする秋丸とおなじくYシャツの肩の埃でもはらうようにはたいて榛名は毒づく。
「あいついちいちうぜえ」
吐き捨てて列の最後尾に並んだ榛名に秋丸はまあお前、構われてるしなあと笑い、凍らせた麦茶の溶けた部分を飲み干した。
「二言目にはスポーツマンとして、とか云いやがってよ」
「昔の体育会系だからしょうがないだろ」
「だったらグランドでヤニ吸うなっつの。『礼に始まり礼に終わる』とかいうくせしやがって」
「お前、そういうとこけっこう厳しいよな。ずぼらな癖して」
ペットボトルの氷を溶かすべく上下に振りながら秋丸は笑う。なんだと、と眉をつりあげた榛名はローキックを入れるべく足をふりあげた。
「っと」
きくっと軽く、高い変な音が体の芯、骨に響いて、バランスを崩してもつれるように転んだ。
「なにやってんだよ、榛名。なんでもないとこでコケてんなよ」
「るっせ、だまれメガネ」
立ち上がってスラックスの裾の埃を払った。右膝が螺子でもぬけたみたいに勝手に折れた。なんだ、いまの、と目を瞬いて右足に体重をかける。鈍い痛みはあったがなにもおかしなことはない。
「つーか、床、キタネエ」
バスケ部かバレー部のモップ掛けが甘いのか、右膝のあたりが十センチほど埃で白く染まっているのに、榛名はなんだよ、と舌打ちをした。秋丸がだっさ、といって笑った。女子にまで笑われて榛名はるっせ、ともう一度つぶやいた。
→「072:喫水線」
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