ブルー、ブルー、ソーブルー
自動ドアが開くのに榛名元希はなんとなく見ていたマンガから目をあげて驚いた。待合室のベンチからすこしはなれた受付に、母親に付き添われた阿部隆也がいた。
初診らしく受付で話す母親から離れた阿部は問診票に記入をしている。やがて受付から戻ってきた阿部と母親が言葉を交わしている、背中に声をかけた。
「…ちわす。おひさしぶりっす」
「あら、やだ。あら、あらー、まあ!」
こちらこそお久しぶりとこぼした彼女はすごい偶然ねえ、と朗らかに笑い、ベンチに座った自分の息子を見て、肘でつついた。
「知り合いがいてちょうどよかったじゃない。待ち時間長いんだから」
「仕事やばいんじゃない」
放っておけば昔話に花を咲かせそうなのを見てとってなのか、時計をみてぼそりと告げてくる。彼女も腕時計に目を落として、眉をひそめた。
「あら、やだ。ほんとうだ。じゃあ終ったらタクシーで帰るのよ!」
「うん」
「バタバタしちゃってごめんなさい。元希くんも、お大事にね」
じゃあね、と出て行くのに頭をさげて、姿がみえなくなると横にどかりと腰掛けた。
「……どうも」
「おまえ、足どした。膝か?」
「捻りました」
「ふーん」
「元希さんは」
「検診」
大病院だけあって、外来はさんざん待たされてしょうがないが、もう数年通っているのだからいまさら別のところに変えることもできない。
「ひでえの?」
「今日、まともに検査なんでなんとも。立てないんでやばいですけど」
「靭帯だったらやべえかもな。時間かかるし」
問診票から顔をあげて、ぱちりと瞬いた。
「詳しいんすね」
「いってなかったっけか?おれ、半月板」
とん、と指で膝頭の横を叩く。
「こっちがカクンて抜けてよ。水腫もでたし。ま、ぶらついて骨にはさんだわけでもなかったしな」
「はさむ?」
「一部はがれたのが。関節あんだろ」
握ってまるめた拳を、指の背をあわせるようにする。親指をもちあげた。
「半月板ってこう、膝の中と外にあんだけど、これが一部ぶらんってなって、骨と骨の間に挟まるともう、動かせないくらい痛いんだと。慢性化すっと靭帯にまでいくし。それじゃねえだけましだったな」
怪我をして動けなかったとき、医師の診察を信用しないわけではなかったがセカンドオピニオンとやらが流行りだしていた時期だったし、野球ができなければ他にすることもみつからず暇つぶしで調べた知識を思い出す。怪我をしらなかったらきっと詰めこみもしなかったし単語もわからなかったに違いない。
「時間、かかるんすか」
「血管が通ってねえから、かかっちまうっつってたかな。ま、おまえの場合はとりあえず検査待ちだろ」
「まあ、そうすね」
「リハビリとかつまんねえぞ」
ひたすらにストレッチングと大腿の裏表の筋肉の強化、ときどき電気をながしても貰う。
「体育も見学だしよ」
「そこすか」
「野球もやれねえし」
呟いたところで、ふいに彼は顔をあげた。胸に拳を押しつけるような、真率な眼差しだった。
「いま野球やれて、楽しいですか」
「そりゃ」
「なら、いいです」
なにが、と顔をあげる。
「まあ、なんていえばいいんですかね」
「どういう意味だよ」
聞き返せば、眉をひそめて、それから別にいいじゃないですか、と続けた。
「よくねえよ」
「素直にうけとりゃわかるでしょ。日本語しか喋ってねえすよ」
「わかんねえよ」
「……ま、わかんないですよね。だからいいです」
「はァ?」
高架を動き出した電車の影が、下ろしきっていないブラインドから差し込んで座席の上をすべるように撫でていく。
「うまくいえる気もしねえし、いう気も、ねーんで。訊かないで下さい」
意味わかんねえし、と両手で頭をかかえて呻いているのに傍らでかすかに笑う。
タタン、タタン、タンと電車が過ぎていく音が遠ざかり静まり返った。なにか紙を打ち出す音や電子機器のモーター音が響く。
「……おまえは?」
「はい?」
「いま、楽しいかよ」
「じゃなきゃ、やってないすよ」
監督もいいし、いいチームです、と彼は笑う。
あの小さくて細かった体もろくにできていない投手を思い出す。たしか一年生ばかり、と秋丸が言っていた。それでもいいチームだと言う。
結局、実力は掛け算みたいなもので、かけた時間が才能に比例する。歴然と差がある。彼はスポンジみたいに覚えがいいほうだった。小さかったし今でも細いしボールを度々こぼすこともある、だけど逃げなかったしわけがわからないくらいこんがらがった組み立てをする、なにより野球のことが好きな奴だった。
「がんばりましょうね」
同じ地区だから、来年も当たる可能性はある。
幾度となく熱っぽい声で斜め下から聞こえてきた声が、いまはひどい穏やかさと静けさに包まれている。勝つことが好きな奴だから、声音の下にある熱は変わっていないとわかる。なのに、肌に響くような生々しさはもう捜しようもなかった。
「そうだな」
答えながら考える。科白は大して変わっちゃいない。だけれどもう、なにかが決定的に違っている。チームメイトではなく、お互いの健闘を称えるだけの美しい言葉。
(先輩よりこうるせえ奴だったのに、なんもいわねェし)
沈黙がなにか落ち着かない。そういえば、ともらされるのに視線を投げる。
「……ノーコン、ましになってましたね」
「あァ?」
いや、やっぱりむかつくからこいつは黙っていたほうがいい。思わずすごむと、向かいのベンチに座っていた老人が顔をあげるものだから、なんでもないです、と手をふってへらりと笑う。事務の中年の女性の心配そうな視線がそれたのをみてから、低めた声でおまえな、と口を開いたが、やめた。
痛いところをつけつけと言うから、欠点をみなおす役には立った。わかりきってる欠点をあげて刺してくるのはものすごくむかついたが。
「……まあ、散々おまえに言われてたし、自覚はあったしな。直さねえと使えねえし」
「そうすか」
「サインどおり投げてやんぜ」
それこそ冗談、と彼は言った。小さく目をふせて。
「期待してないす」
言って彼は信じられないほど凪いだ顔で笑いさえするのに、怒っていないのに泣いてもいないのに、なぜか自分は失くしたと感じている。相変わらずの生意気に答えて笑ってやろうとしたはずなのに、声は喉のはるか下で詰まってうまく出てこない。
(なんだよ、それ)
瞼の裏側、最後の一球を投げきったあと灼けた土がかぎろって揺れていた18.44メートル、マスクをもちあげて笑う顔は、なぜか影になって見えなかった。
(見たこと、あったっけか)
いや、覚えてるんだからあるはずだろ、と思うのに思い出の眩しい純色の青空といまにも蒸発しそうな雲、現実味は呆れるほどになかった。
元希さん、どうかしたんすか、とかけられるのに、いや、と曖昧に答えたところで、榛名さん、と受付に名を呼ばれ、立ち上がった。
「おまえ、帰るんじゃねーぞ」
廊下を歩き出す。色んなことがわからない。わかっているのはともかくこいつなのだということだけだった。
けれど答える声はない。
→「060:轍」
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