(……あ?)
ばちっといきなり磁石が反発するように瞼が開いた。窓硝子に雨が当たる硬い音がひっきりなしに響いていた。夏の始まりを告げて終いの花をさらう、嵐がきている。天井に水槽の中に似た青白い光が浮かび上がっては、斑にゆれていた。ゆらりと部屋の角で重たげな生き物のように息づく暗がりに、喉から胸のあたりに冷たい厭な汗が浮かび上がる。
寝返りをうって、布団を被ろうと上体を捻ったところで、枕につよく顔をおしつけた。かはっと渇いた咳がとびだす。
(――んだよ!?)
「……ってぇ」
膝に太い釘を打ち込まれるような痛みに、ぐう、っとシーツを握る。右膝を震源にして太股から腰あたり、足の裏までタチのわるい虫歯みたいにわんわんと響く痛みに、頭の中には痛いという単語しか残らない。食いしばった歯からサイレンみたいな唸り声が洩れた。
痛みが怖くて身じろぎすらろくろくできない。そろそろと恐る恐る息を吐いて、痛みがひびかないよう、体を丸めようとしたが、重くのしかかった膝の痛みにまた呻いた。不意に風が強く吹きつけて、窓ガラスがびりびりと震えるのがわかった。
(膝、が曲がらねえ)
ひっ、ひっと荒い息が洩れる。うう、と呻いてにじむ部屋の天井を見つめる。膝の皿、表と裏に作り物の螺子を勝手に入れられたみたいに、まげることができない。曲げたら膝の皿がぱきりともろく割れそうだった。
砂嵐のノイズのように絶え間ない雨音の底、小刻みに息遣いが響いている。
*******
あのさ、と朝食を食べ終えた後、皿を重ねて流しにかたしながら口を開くと洗濯籠をかかえていた母親がなに、とふりむいた。
「病院行きてえんだけど」
「なに?カゼ?ちょっと、救急箱の中におねえちゃんが前貰った薬あるからそれのみなさい」
「ちがくて、膝」
「……あんたソレ、先生に診てもらったとかいってなかった?まだおかしいの?」
なんなのかしら、と言うだけで話のすすまない母親に面倒だな、と後ろ頭をかいていたら、車に乗せていってやればいい、といったのは父親だった。フレックス通勤奨励だかなにかの一環で、上のものから実行しろとのことらしく、出て行く時間はまちまちでこうして朝食のあともゆっくりしていることがおおい。
「国道ぞいの総合病院とこ、たしかスポーツ専門かなんかのあっただろう」
「そうなの?でもあそこすごい待たされるじゃない」
「科ごとにちいさい病院にいくより、大きい病院で全部みてもらったほうがいい。車が混みだす前にでたほうがいいな、10分で支度できるか」
てきぱきといった父親に、納得した母親もはいはいわかりました、というと財布から紙幣と保険証をそろえてテーブルに置いた。
「あ、でもお父さん、私病院までの道しらないから、行きはお父さんが運転してくれる?」
「ああ」
父親は雨がひどい日などは母親の運転する車で隣駅まで送ってもらっている。私鉄が多数乗り入れてる隣駅で定期を買った方が初乗りがガソリン代をはるかに上回るためだった。
帰りはなんとか道覚えていくから、という母親は、ふっと眉をよせると榛名を見あげた。いつのまにか旋毛が見えるようになっていた。けして小柄なほうではないのに、いつの間にかだった。
「痛みが長引いてるって、なんか厭ね」
*******
レントゲンには何にも出ないな、と髭面の医師は言って白い蛍光灯を裏にでも入れてるのだろう、ボードに張られた黒写真を見ている。
じゃあなんなんだ、と唇を噛んだら、くるっと医師は首を榛名に向けた。
「なんでもないってことじゃないよ。軟骨とかってレントゲンだとわかんないから」
医師はちょっと寝て、と診察用の台を差した。
「うつぶせに、そう。ちょっとそこ押さえてあげて。太股の筋肉落ちてない?」
看護師に指示をだしながら聞かれるのに榛名はわからないです、と答える。うつぶせに寝た大腿部を看護師の存外に力強い手が押さえ、医者が痛かったら手をあげてね、と言うのにしたがう。ふくらはぎをゆっくりもちあげられ、痛いときかれるのにいいえ、と返す。じゃあこれは、と言われて踵をおさえながらゆっくりと膝を回されたとたん、太股をかけのぼった痛みに呻いた。
楽にして、といわれて起き上がると目の前のリノリウムの床に、医師がしゃがみこんでいた。
「……靭帯は大丈夫みたいだね。やっぱりハンゲツバンかな。聞いたことある?」
名前だけならきいたことがあった。新聞や雑誌、故障やリハビリといった単語とならぶ。半月板。膝を覆う指先が引きつった。
「まあスポーツやってるなら聞いたことくらいあるかな、膝にあるクッションみたいなので形から半月っていうんだけどね、それがまずいのかも知れない。そういう兆候がある」
さっき太股の筋肉おちてない、ってきいたのはこれ、と指さした。黒い合成皮ばりに青白いシーツのうえ、ならんでのびた太股が重力にまけた形で乗っている。右ひざがすこしはれたように浮腫み、反して上腿は痩せていた。
「半月板って、慢性でやると肉が落ちるんだよ。痛みけっこうあったんじゃない?」
「……」
「我慢強いね。いるんだよね、我慢しちゃう人って」
これはMRIできっちり見たほうがいいねえ、と椅子に座りなおして彼は言った。
「検査費で病院稼いでるから高くなっちゃうけど、うちもやってけないから勘弁ね」
茶化すようにいった人は青いクリアファイルの中のカルテにミミズのようにすばやく文字を書き込んでいった。
「……あの」
「うん」
「スポーツ、は」
スリッパをはいた足先が、自分の正面に向く。椅子がまわる軋んだ音がした。
「できるよ」
一息も間のない即答だった。顔をあげると、医師は皺のおおい額にまた皺をきざんでくしゃりと笑った。年よりよほど老けていそうな顔だった。
「半月板損傷ってよく聞くから、怖くなっちゃったかな。でも大丈夫。詳しいことはちゃんと見てもらえないとわかんないけどね。時間はかかるけど、ちゃんと理学療法士についてもらって知識つけてリハビリすれば、できるよ。相談してもらえればプログラムだってきっちり組むし、色々アドバイスできる。あのね、やる気があるなら平気だよ。君なら大丈夫。絶対」
君なら絶対できるよ、と気負いすぎるでもない、不思議に落ち着いて耳からちがうところにすべりこむような声で医師は言った。
「だって君のは使いすぎって奴だからね。多分、軸足でひねる負担がたまってやっちゃったと思うのね。オーバーユースって奴。体がまだできてないしさ、男の子って急に伸びるからそういうのあるんだよ。でも負担かかっちゃっただけだからね、ちゃんとこれからやれば平気だよ」
ぶるっと腹の底から首筋に震えが走った。手の中にぱっと熱がともって、ぎゅうっと力が篭もった。痛いほどだった。拳の背が白くなる。
「ただね、半月板ならだけど、基本的に治る部分じゃないから、手術で部分的にとっちゃうか、リハビリするかになる。でもスポーツやるならしたほうがいいと僕は思うよ。いまは内視鏡ですぐ終わるから。ただちゃんと先生と相談することだよ」
大丈夫だよ、と医師が繰りかえし繰り返しいう声の、あまりに優しい響きに泣きそうになって、思い切り歯を食いしばらなければならなかった。
MRIの結果がでた二日後に、診察で膝をちいさく切って内視鏡で患部を確認、そのまま鏡視下手術をすることになった。三ヶ月、と言ってからいや、二ヶ月でも大丈夫かなと言われて、なにより安堵した。
病院脇のバス停のベンチに座り、スポーツ飲料のボトルキャップを捻った。喉がやけに渇いていたせいで、一息で半分以上のみきった。草いきれと土のにおいがいりまじった蒸れた空気が肌を包み、逃げ水をゆらすアスファルトの照り返しをみれば白く赤く目の前を灼いた。蝉雨は小息みなく鳴きしきっている。
二ヶ月でなんとかできたら秋の新人戦にだって間に合う。二ヶ月は我慢しなきゃいけない、だけど間に合う。
(二ヶ月、で間に合う)
俯いて汗ばんだ額にペットボトルを押し当てれば、冷たさが気持ちよかった。
******
あれ、と言われて体育館の昇降口にたっていた榛名は首をめぐらせた。指さすバレーボールのユニフォーム姿の女子に首をかしげる。
「なんで榛名いんの?部活?」
日曜日の午前だ。答えず、学校指定のハーフパンツに両手をつっこんだまま榛名はがらんとした体育館を見回した。
「他の奴いねえの?」
「ほんとは美世も一緒だったんだけど、電車乗り遅れて先に体育館あけてただけ。暇だから壁打ちでもしようかなって」
「バレー部も道具多いよな」
「これからネットたてなきゃいけないしね。さすがにそれは一年にやらせるけどさ。ていうか、榛名それ何」
「なにって」
「膝の」
「ああ、サポーター」
「怪我したの?」
「ちげえよ。成長痛」
第一体育倉庫に入ってバレーボールの籠をひっぱりだしていた女子が、へえ、と声をあげる。嘘をついたことにとくに理由はない。ただ、いちいちいうようなものでもない気がした。
「やっぱあるんだ。男子って大変だね。体育やって平気なの?」
「ちっと制限かけられてるけど、秋ぐらいにはいいってさ」
「ああ、なんだ。よかったね。先輩でさ、骨がまだできてないのに無理やっちゃって、あんまりすごい運動できなくなっちゃった人いるからさ。榛名も気をつけなよ」
「……おー。なんだよ、説教みてえな」
ボール籠の隅についているストッパーをはずしキャスターがまわるようにすると黄ばんでよごれたネットを籠から取り出して、網棚においていた女子はどうしようもないといった顔で笑った。
「その先輩、めちゃくちゃ頑張ってたんだけど、それ裏目に出ちゃったからね。レギュラーはずされたとき泣いてたもん。そりゃ全国クラスとかまで行かないけど、県代表にはいけるかいけないかって人だったからさ、悔しかったと思うよー」
部活レベルでもさ、頑張ってたんだもん、と言う。
「榛名って部活、どこだっけ」
「野球」
「あー、顧問あれか。厳しそうだよね」
「いちいちアイツうるせえよ」
「足の、先生にいったの?」
「あー……、今から」
*******
体育館そばの教官室のドアをノックした。
ちょっと話あるんすけど、というとプリントを記入していたらしい顧問は椅子のキャスターを動かして向き直り、入れ、と短くいった。たったままの榛名を見あげて、それからサポーターの巻かれた膝をみる。
「足、まだ痛みでるのか」
自己管理がちゃんとできてないんじゃないのか、と通り一遍の説教が聴かされそうで、早々に口火を切る。
「半月板損傷だって医者が」
一瞬目をまるくした顧問はそうか、と言ってから頭を掻く。
「普通にプレイできるようになるまでどれくらいかかる?」
「今度処置して、はやくても二ヶ月っていってました」
弱ったな、といった顧問は机の上をやにわにばさばさと片付けだした。
「じゃあ、休部届出しといてくれ。いきなり長く出ないと示しもつかないしな」
書き方は生徒手帳にあるからそれでいいだろ、と口早に言うと顧問は机に向かってプリントの処理を始めた。ばさり、と紙をめくる音がしばらく響く。それきり顔をむけない顧問に榛名は呆気にとられて立ちすくんだままだ。
「ちょっと、すみません」
卓球部の道具取りたいんですけど、という声が後ろからかかるのに榛名は振り向いて脇に避ける。膝に体重をかけるのはまだ怖い。思わずよろけて壁に背中をぶつけた。下級生らしいのが脇をすりぬけて教官室に入り、縄跳びの入った籠をもちあげた。
「先生」
「んー」
「この縄跳び、柄のとこ壊れてるの何本かあるから、捨てたほうがいいとおもうんですけど」
そうだな、と顧問は顔を向けもしないでいうと、声変わりもしていない子供じみた高い笑い声が廊下に響く。じり、と右足が退がった。それから、いつまでもここにたむろしてんじゃない、という声に、左足が、右足が退がった。そしてまた左、右、左。
失礼します、と聞こえた声が自分のだと気がつくのにタイムラグがあって、追いかけてきたのは、月曜までに提出しろよ、という言葉だけだ。
*******
左のポケットで携帯が着信をしらせて低く震えた。たてつづけに3回、通話ボタンをおせば、なんだよ、とため息まじりの声がした。
『榛名なにやってんだよ、もうみんな部室でてるぞ』
「秋丸」
『ん?』
「俺休むわ」
『あ?なに、はる……』
通話をうちきり、ポケットに放り込んだ。携帯は幾度か震えた。やがてそれもとぎれた。アスファルト、落ちた影は暗い。
→「007:毀れた弓」
文字書きさんに100のお題より
配布元:Project SIGN[ef]F