流影【三】










不夜宮(ふやぐう)という。

泰華(たいか)国首府・蕃胡(はんこ)

国の興りは僅かに三十年ほど前、武断の王と名高い初代皇帝・翰全の勅旨により、大河・嬰水のもたらす水運の利および、陸路の要衝たるによって遷都した。

泰華は大陸の東半分、中原と呼ばれる肥沃な大地を版図におさめ、四海にあまねく名をとどろかす大国だ。

東方にあっては高麗、倭、流求などの朝貢使ならびに、留学生が大海原を越えて揚々とおとずれる。また、康居(サマルカンド)突厥(トルコ)回紇(ウイグル)波斯(ペルシア)大食(アラビア)吐蕃(チベット)天竺(インド)などなど、およそ西域(せいいき)と呼ばれる異国から、神仙が住まい名玉の産地と名高い崑崙・天山の峻峰を経て絲紬之路(シルクロード)の行き果てる、享楽の都である。

壮麗かつ堅牢な城壁で包まれた都城は運河で囲まれ、肥沃な鴻南からの米や玉蜀黍、麦をはじめとする穀物、あるいは南海東方からの珍貨を山とのせた船が河風に帆をいっぱいにはらませて行き交う。

三層よりなる丹朱の門扉に黒鋲、緑の竜柱うるわしい朱雀門のうちに一たび入れば、天子の居ます宮城まで連なる南大路がまず客人の目に飛び込む。

更に眼を奪うのが、大河のような街路をいく様々なものの姿だった。

家畜一つをとっても馬に牛、驢馬も居れば駱駝、羊、山羊も居る。天神地祇を祭った社稷(しゃしょく)や寺に香華は絶えず、論じ合う学僧が行き交い、楊柳のかげ涼やかな茶房に集う文人墨客も居れば、花紋(いれずみ)を入れた武侠もあり、銀鞍白馬も麗しいどこぞの高官の子息かと思われる花花公子、戎衣の紫髯緑眼(しぜんりょくがん)の胡人はめずらしくもなく、回族、はては黒肌の者も我が物顔で道を行く。

都城は隔壁で東西南北に隔てられ、それぞれを胡中街(こちゅうがい)白明街(はくめいがい)南天街(なんてんがい)、宮城となる。 特に市の立つ東街・胡中街は古今東西の商人が集まる街でそのかまびすしいことといったらまさに天下一。

晨鼓晩鐘(しんこばんしょう)で街の東にある春明門が閉ざされたのも今や昔、常に門戸が開かれた胡中街に連なる商舗(みせ)で手に入らぬものはなく、露天で声高らかに客を誘って商うものもいる。

布、青果、陶器をはじめとし、香木、珍陀の酒、五色の彩あざやかな陶器、瑠璃杯、細やかな刺繍が美しい毛織物など、西域からはるばるもたらされるものが並ぶ。

黄昏時になれば灯火の下で夜市(やし)がおこなわれ、暁ごろになれば鬼市(きし)が立つ。明かりが消える暇もなく、さんざめく光のなか客を呼び止める商人の声が途絶える時もない。

西方からの胡人を宿す宿坊、建ちならぶ高楼は甍瓦(いらか)も光を放つよう、酒楼の掲げる色さまざまの幟が初夏の宵風にはためき、洩れきこえる絃管の音と嬌声に頭をめぐらせば、夕闇に妓楼の緑柱紅灯が浮かび上がる。

露台の欄干にしどけなくもたれる、あるいは赤い裳裾に薄絹をひるがえして家路を急ぐ男の腕を、嫋々たる白い指で柔らかにとらえる。

嬰水の女神と名高き娼妓たちは、ぽつぽつと灯りだした花燈籠の明かりに最も美しいようにと、脂粉に紅を差し、つややかに結い上げた鬢には歩搖ゆらめく簪、あまやかに香りたつ花を添えて短夜につかの間の仙境へといざなう。

「綺羅珠翠をよそおって門ごとに神女有り。画閣紅楼の家々は仙宮の如く」

と言わしめるのも、偽りではない。
ゆえに、不夜宮という。
その胡中街。

宵も近づき、赤い花灯籠が悩ましい花洛と呼ばれる界隈に、うらうらと月琴の音が流れている。曲を奏でるのではなく、ただ手遊びに弦をもてあそぶような、そんな物憂い音色だった。

音をたどれば行き着くのは、望天楼、と丹朱の扁額に銘打たれた豪奢な酒楼である。

飛橋と呼ばれる渡り廊下をめぐらした高楼、吹き抜けの土間は衝立で仕切られ、卓子の周りで客達が酒を煽っている。その土間の上、めぐらされた勾欄のある二階は、馴染み客や上客を通すための小部屋が連なっている。その、ひと房間(へや)、開け放った窓に腰掛ける姿があった。

「いい加減、機嫌直せよ。そんなに相討ちだったのが悔しいか?」

西来とわかる蔓模様、丹青の釉が美しい胡瓶から、芳醇な赤い酒が注がれる。千秋が差し出す銀器のなかの、血かと見まがう葡萄酒にちらりと視線を走らせた高耶は、また気もそぞろに開け放った窓の外に顔を向けた。

びいん、と月琴の弦を爪弾く。

(相討ちなんかじゃねぇよ)

昼間の天覧試合で対峙した西胡の男。黒旗北軍に属する男、だが太夏節に集った百官の内、その誰もが、高耶と試合を行うまでその技量を知らなかった。

「誰なんだ、あいつ」











相討ちではなかった。

渾身の斬撃を流した男が、試合を初めてようやくに見せた、気息の乱れ。とれる、と確信した高耶が踏み込んだ瞬間、男の琥珀を思わせる双眸が光るのがわかった。高耶は僅かな慢心を悟る。

罠だ、と思う間もなく、振り下ろした高耶の長剣を男の偃月刀が跳ね上げた。左手首に走った鋭い痛みに、ああ、自分は負けるのだと他人事のように思った。

閃いた銀光が目を射貫いて、水を打ったような静寂だけがあった。

銀光が演舞場の石畳に落ちるのを、視界の端に捕らえ、それが自分の跳ね飛ばされた長剣と、男の持っていた偃月刀の砕けた刃だと知る。

だが僅かにのけぞった喉元に突きつけられた柄元一尺程度の刃。男が手を突き出せば、全てが終わる。男の剣気を前にして、どこか陶然とし一歩も動けなかった。

視界を翡翠の光がよぎる。

「それまで!」



ほう、と吐息を漏らしたのは誰だったのか。張りつめていた糸がゆるみ、ようやく人々が言葉を取り戻す。

天を劈く万雷を思わせる拍手が降り注ぐ中、高耶を映しこむ男の目が不意に和らいだ。琥珀に燃えていた殺気が陽光のした解ける雪のように、消えた。

不意に体中を濡らす汗に気がつく。

「剣を引いていただけますか」

言葉に自分もまた男の首筋に白刃を押し当てていたことを悟る。おそらく彼の大刀が折れなければ、突きつけることすらできなかった。そして気づく。

男は汗一つ浮かべていなかった。
のろのろと高耶が刃を引くと、男は一歩下がると、踵を返して試合をはじめた場処に戻った。翻る黒衣の裾を高耶は見るともなしに追いかける。

その足元。 極上の絹糸とわかる、なめらかな五色の糸で編まれた色鮮やかな飾り紐が、無惨に千切れていた。だが高耶の目を捕らえたのは、石畳の上、日の光を受けてとろりとした輝きを放つ玉だった。翡翠。

「―――あ」

ひやりとした佩玉を高耶は拾い上げ、男に渡そうとする。何か言おうと口を開いたとたん、千秋の声が耳を打った。

「礼!」

慌てて拱手をして礼の姿勢をとる。

北面した男もまた端正な仕草で、至尊の高座にある丙全帝を仰いでいた。

黄は貴色、裾を引く金糸豪奢な長袍には、五本の爪を持つ竜が踊っていた。爪は龍の神格を示す。三本の龍は神仙の足を勤める蛟竜、五本は虹蜺、蛤、蛇などなど龍属の長たる龍王、天子のみが許された、龍繍。

豊かな美髯を蓄えた皇帝の目が男を捉え、ゆっくりと口を開いた。

「黒旗―――胡族か」

天帝の地上における代理人、皇帝の直々の言葉に周囲がざわついた。高耶のときの非ではない。黒衣の男はただ頭を下げる。

「直答を許す。名は」
「聖上!」

宦官の咎めの声を、皇帝は輝石の象嵌された竜爪を上げる、ただその仕草だけで制する。宦官は眼下、陽光を受けて白い演舞場にひざまづく黒衣の男を、蛇蝎でも見るような憤怒と侮蔑を孕んだ眼差しで見下ろした。

が、至尊の君の意を阻むものがこの泰華に居ようはずもない。
観衆の戸惑いをよそに、ひとり悠然と丙全はくりかえした。

「よい、朕が直答を許す。名は」
「票族五氏が一、橘の三子、義明と」
「きかぬ音だ。泰華の言葉がうまいな」
「母が、泰華の者でありますれば」
「票族の橘三爺か。鄭青(ていせい)
「ここに」

皇帝の指名に、鄭青という名の近従が進み出た。随従が濃紫の絹布で押し戴く一振りの長剣に、静まり返った観衆から感嘆と羨望、驚愕、そして僅かに軽侮が宿った声があがる。先ほど声を上げた宦官は、橘三爺と名乗った男を射殺すが如き視線を当てていた。

丙全帝は龍爪でその剣を示す。

「橘三爺、銘を碧明剣(へきめいけん)という。砕けた刀の代わりだ。とれ」
「身に余る光栄と存じます」

恭しく剣を受け取った橘三爺は額を押し当て、腰に佩いた。
誰からともなく吐息が漏れる。

「碧明剣つったら鬼工(きこう)の名剣じゃねえか」
「知ってる」

千秋の囁きに、見開いた目を橘三爺に当てたまま高耶は頷く。

碧明剣。

産地および鍛工の名は詳らかでない。名の由来は精錬された鋼に漂う刃紋に時折、碧玉を思わせる青い波が浮かぶためだ。人外、()の手による作というのも、抜刀すれば散るは流霞、幾たり血に濡れながら刃が曇ることはないという話を聞けば信じざるを得ない。

数多の名手の手を渡り歩いた稀代の名剣。

何故、という疑問は先ほどの宦官ほどではないにしろ、太夏節、この宴に集った者の殆どが抱いた感想だろう。

天覧試合に名を連ね竜顔を拝謁し、直答を許される謁に浴し、皇帝御自ら下賜された剣は先帝・翰全の右腕といわれた驍将(ぎょうしょう)・安雷が佩刀していた名剣。

それは、一介の胡族の身には余る僥倖、と思わざるを得ないものだ。

東夷、西戎、南蛮、北狄。これは『()』に対する蛮族を示す語である。泰華の者が異国の者に向ける感情は、全てこの語に集約されていると言っても過言ではなかった。

それは泰華に服属を誓い、朝貢を続ける泰華七胡も例外ではない。

退出の礼をとる橘三爺を、高耶はぼんやりと見ていた。
と、手の中の佩玉を思い出す。

「あの」
「なにか?」

振り返った橘三爺の眸に、自分が映っていることに高耶はなぜかいたたまれなさを感じる。口元に刷かれたやわらかい笑みや、耳障りのよい声も嫌いではない。むしろどこか懐かしく、好きなほうだ。

ただ、真っ直ぐに自分を捉える瞳の思いもよらぬ強さに戸惑う。探るような、絡めとるようなひどく強い眼差しだ。どこか苛立ちを孕んだような。

だが高耶は口を開いた。

「この佩玉」

つと男の眉が上がり、その面から笑みが消える。表情を無くしたその顔に、高耶は驚いた。

「ああ、それは貴方が持っていてください。貴方が持つべきものですから」
「え?」
「それでは」

男は淡々と言葉を口早に紡ぐと、くるりと踵を返してしまった。丈高い男の背中を高耶は見送り、遠ざかってから我にかえった。

手の中には、翡翠の佩玉が光っている。





「まーたまた、悩ましいため息なんかついちゃって、何処ぞの公主(ひめ)にでも迫るのかよ」

能天気な千秋の声に高耶は引き戻された。
窓の外には夕闇迫る帝都、天覧試合の行われた演舞場ではない。ゆるい風に揺れる珠簾、爪痕のような三日月が紫紺の空に引っかかっていた。

二階建ての高楼、飛橋でつながれた吹き抜けの階下からは酔漢たちがたてる銀器を使う音と放すざわめ気が遠くきこえる。

房間に目を戻せば、廊下に面した長窓(とびら)の前には黒檀の透かし彫りが美しい衝立、金碧の山水画、青銅の灯籠には明かりがともり、下げられた香炉からは竜涎香が薫っていた。

水盤に獅子を象った氷塊が置かれ、早咲きの沙羅が生けられていた。

卓子には瓜の芥子和え、揚げた餅、魚の蒸し焼き、粟の入った粥などなど、数々の肴が銀器に盛られている。

その傍、長搨(ながいす)に行儀悪く寝転びながら、梅花酒を舐める千秋を睨む。

「何いってんだ、お前」
「だってよ、そんな古い佩玉なんか握りしめちゃってため息ついてりゃ、こりゃ女かって思うのが人情だろ。もういい年なのに浮いた噂一つないし」
「ばーか、そんなんじゃねえよ」

絶えず肌身離さず、帯に下げた佩玉を異性に送ることは婚姻の意思を伝えることだ。相手が是と答える場合は、果実を返す。随分と古風なしきたりだ。

手のひらの中、しっくりとおさまる翡翠は、春のやわい色の青空の下広がる河の水面を思わせる。翠緑に漣のような模様が美しい玉だった。とろりとした色彩は、素人目にも上質のものとわかる。

(やっぱ返さなきゃいけないよな)

ため息をついたとき、唐突に怒り狂った女の声が響き渡った。







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