雨降り星
雨にぬれた髪はどうして変なにおいがするのだろうとエドワードは思う。
兵舎にあるバスルームにいこうと明りがおちた廊下をあるく。定時をすぎた兵舎は規則どおりに静まり返り、非常灯の明りがともるだけだった。時折カードゲームにでも興じているのか笑い声が響くことはあっても、耳につくのは自分の半歩ぶん、ききなれて耳障りともいえなくなった足音だけだ。
ふと零れている明りに眼をむければ、カーテンのむこう窓に点る明りだ。なんとなく回廊を通り抜けちかよって見ればなんのことはない、東方司令部の大佐殿が残業しているらしかった。
(……って、さぼってんだろ、あのクソ大佐)
火屋を金色にひからせたランプの明り、明りこそついているが寝そうなほど据わりごこちのいい皮革の椅子はからっぽ、インク壷には鵞鳥の羽ペンがつつしんで鎮座ましましている。副官としてできすぎなほど有能で苦労性の中尉がいれてくれた珈琲もさめてることだろう。
「子供は早く寝ないと身長がのびないものだが」
「……挨拶がわりがそれなんだから、最低だよな」
「おや、随分と卑屈になったものだな」
後ろに立って面白そうに旋毛を見下ろしてきた忘れようにも忘れられない男の顔だ。反論はないのかい、と切れ長の眼をすがめて笑っている。
「そうそうあんたばっかりにも構ってられないんでね」
嘯けば偉くなったものじゃないかとわざとらしく感心してみせるのも小面憎い。すこ
しやつれて隈をはりつけ、不眠つづきで頬もすこし削げてしょぼついてるくせに。い
ちいち芝居がかった仕草が鼻につくが、文句なく似合っているから始末に終えない、
それがロイ・マスタングという男だ。
「それは寂しいな」
一瞬絶句したエドワードは動揺した自分にちっと舌打ちをした。みるみる渋面になる
自分をみておかしそうな男に呆れた視線を投げかける。
あんた、意外と俺がすきだろう、と呆れて呟けば小さい快活な声が降ってきた。
「口説き方がまるでなっていないな、鋼の」
鼻先で笑いとばされるなんて百も承知、面白くもない冗談だ。世にも物騒な薄布でつ
つまれているはずの、いまはむきだしの指先がほつれて肩口におちた髪をすくいあげ
てひっぱる。濡れてこい琥珀になった髪に結んだ雫がむきだしの足の甲に落ちてちい
さく音をたてた。がしりとおもい右腕で振り払うのではなく、にぎりこめば彼すこし
眼を見開き、また笑う。
「ムードもないな」
「脳みそくさってるだろ」
「人生の先輩としての忠告だよ」
「ご親切いたみいるね。やっぱあんた俺のことが好きだろ」
「大概私もみくびられてるね。素直に言えば落ち込む子供ひとり、抱きしめてやるぐ
らいの準備はあるつもりだよ」
添い寝は疲れているからさすがにご免蒙るが、と続けるのにああまったく厭な大人だ
と思う。狗だなんだと突き放したあと甘やかしてくる。それこそ犬の躾と同じだ。
甘やかしていい気になってるだろう。手を放すのは自分だと思ってるだろう。女の指
をくわえるのが似合いのうすい唇で髪の毛の先に口付けた、瞼の下どんな俺を想像し
てる。雨にずぶぬれになっていれば落ち込んでるとおもうなんて、くだらない小説の
よみすぎじゃないのか。
どんな悲劇があったって雨がふっていたって雲の向こうはるか高く空は青いこと、俺
はとうにしってる。
「御託をならべるあんたみたいなのを無粋っていうんじゃないの」
スマートにやれよ、と低い声でいえばこれ見よがしなため息をつくくせに甘い手を伸
ばしてくる。抱き寄せる腕は子供に対するそれだ。泣きそうだとでも思ってるのか
よ、バカめ。こんな子供ひとりにほだされてみたりする自分にちょっといい気になっ
てるだろう、二倍ちかい年のくせになんて浅はかなんだ。
「しょうがないな、君はまったく」
言ってろよ。少年の声にださない言葉は犬の子でもかわいがるような眼をした男につ
たわるはずもない。抱きしめられてんじゃない、俺があんたに抱かれてやってるんだ
ぜ。
「おせっかいついでの忠告がもう一つだ。どうしようもなく人間の厭なところを見た
ときは、自分はならないと思うのが最良だよ」
「そりゃあんたの話か?」
抱きしめられたふりで顔を胸に伏せあんたの顔をみないでいてやるのは俺の優しさな
んだ。あんたも同じこと思ってることなんてはなからお見通しなんだ。
「まったく、君はひどいな」
口先だけで笑ってんなよ。
なあ、俺のことが好きだろう?
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